任意的寄付病院

必要があって、任意的寄付病院についての論文を読む。文献は、Cherry, Steven, “Accountability, Entitlement, and Control Issues and voluntary Hospital Funding c1860-1939”, Social History of Medicine, 9(1996), 215-233.

任意的寄付病院は1730年代からロンドンに始まってイギリス中の都市に建設され、1800年には50近い数の病院が全国に作られていた。これはその後も順調に増えていくが、1860年に一つの危機を迎える。病床数は増えて行ったが、人口増加に追いつかず、病棟は慢性的に過密であった。感染症や外科手術の後の死亡を中心に、病院での死亡率は高く、ナイチンゲールの有名な『看護覚書』(1863)や、リスターの殺菌消毒法の発見(1865)は、このような問題を抱えた病院に対する批判であり、改革する方法の提唱であった。その一方で、治療費を支払う能力があるにもかかわらず慈善で治療を受ける患者の存在も、慈善の浪費として問題になっていた。また、労働者階級も、労働者の自助努力や相互扶助の理念のもと、募金や共済や組合の寄付や個人の積み立てなど、病院の基金に貢献する仕組みが作られていた。この傾向は各地で強まり、1900年には、職場での募金や労働者たちを病院の理事に選ぶことなどを背景に、病院が労働者階級に乗っ取られるという不安すら表明されていた。

このような、かつてはエリートが恵与する慈善であった病院医療が、労働者たちが経済的に貢献したり運営に参加したりする組織になったのは、既存の組織に、労働者階級や民衆の努力が接木されたというだけではない。この、労働者階級の参加を通じて、必要とあれば病院で医療を受けることが権利であるという意識が形成されて、病院医療とは何か、それに何を期待するのかという、社会的な意味における医療の根本的な性格が変容していくのである。すなわち、労働者階級が、任意寄付病院をサポートしていたという事実は、その「慈善」という原理、あるいは医療専門職による「支配」という原理まで受け入れていたことを必ずしも意味しない。古い構造の中で、「権利」を保障するという新しい医療の社会的役割が形成されていたのである。