北里・ベーリングと血清療法の発見

必要があって、ベーリングの伝記をチェックする。文献は、Linton, Derek S., Emil von Behring: Infectious Disease, Immunology, Serum Therapy (Philadelphia: American Philosophical Society, 2005). 本来、もっと大事なことが書いてある本だけれども、今回チェックした箇所は、ノーベル賞をめぐる問題のところ。

ベーリング (Emil von Behring, 1854-1917) は、1901年に第一回のノーベル医学賞を受賞している。受賞理由は、「血清療法、特にジフテリアへの応用」である。そして、ベーリングがジフテリア血清の原理を最初に発表した論文(「動物におけるジフテリア破傷風の血清療法について」)は、1890年に北里と連名で出版されており、ここには北里の破傷風の研究の結果が多く盛り込まれている。そして、ベーリングが血清療法の開発の功績でノーベル賞を受賞した1901年に、北里はノーベル賞の候補に上がりながらも、結局受賞を逸している。

この事態について、日本の医学者や医学史の研究者たちは、「北里は本来受賞してしかるべきノーベル賞を奪われた」という見解を取っている。コッホがベーリングに北里の方法に従うように命じたという、コッホが後に日本で述べた台詞が、北里の研究を主として、ベーリングがそれを補う形で血清療法が開発されたという図式を支える証拠として語られている。この「真の功績は北里にある」という図式は、もとはといえば1920年代に現れたそうだが、現代でも続いていて、1999年の中村桂子の記述(「能動知性」シリーズのもの)や2008年に出た福田真人の最新の北里の伝記においても、基本的にはこのラインの議論が踏襲されている。どちらの著者も、ご丁寧に、日本人の研究者が欧米人に対してハンディキャップを負っているというごもっともな義憤をはさんでいる。

ハンディキャップ云々や、科学的業績の評価における(極端な言葉を使うと)人種差別の問題は、一般論としては正しいのだろう。問題は、血清療法の開発という業績を、ベーリングが受賞して、北里が受賞しないことが不適切かどうか、ということに絞られるべきである。この書物は、ベーリングの伝記であって、伝記作者は主人公に甘くなりがちであることを差し引いて考えなければならないのはもちろんである。しかし、ベーリングが北里と論文を共著で書く以前の論文を検討し、また、その論文の出版からノーベル賞を受賞するまでのベーリングの仕事の内容を検討し、それから導き出している、ベーリングが受賞することは正当であるという結論は説得力がある。その一方で、著者は北里の功績も認めていて、「現在であれば、ノーベル賞委員会は、ベーリングと北里、そしてルー(ジフテリア毒素を発見したフランスのエミール・ルー)の共同受賞になるだろう」と書いている。しかし、ベーリングの受賞は不適切であり、北里こそが受賞するべきだったという説は、ほぼ疑問の余地なく論破されているといってよい。

北里がペスト菌の発見者として国際的に認められていないのは正当である。北里を(イェルサンとの)共同発見者であるとするのは、むしろ、事実として間違っている。北里はペスト菌を同定していないからである。1901年のノーベル賞は、北里は「受賞してもよかった」が、人種差別により受賞を奪われたと考えるのは、適切ではない。破傷風の純粋培養と血清の開発は、北里独自の素晴らしい業績だが、これはジフテリアに較べると、ノーベル賞に値するほど大きなインパクトがあった病気かというと、疑問が残る。北里はノーベル賞のチャンスと可能性がありながらも実際には受賞できなかった数多くの科学者の一人であると考えるべきだろう。ノーベル賞を受賞する「べきであった」にもかかわらず、ノーベル賞委員会の「過誤」で受賞できなかったとは言い難い。その表現が合うのは、おそらく、初めて人工的に動物にガンをつくった山際勝三郎だろう。(後に、ノーベル賞委員会の委員が半ば公式にその過ちを認めている。)これも、詳しいことは調べてみないと分からないけれども。

科学が国際的でなければならないのと同じように、科学史も国際的でなければならない。人種的な理由でノーベル賞選考に偏向があるという考え方は、コスモポリタンな視点にもなれるし、国粋主義的な視点にもなることができる。当たり前のことだけれども、気をつけて使わなければならない。