『ワルキューレ』



新国立劇場で『ワルキューレ』を観て、その無駄話で記事を書きます。

前作の『ラインの黄金』で、契約と権勢欲でがんじがらめになってしまった最高神ヴォータンが、呪われた結び目を断ち切って神々を救う望みを「人間」にかける。ヴォータンは、人間の女と交わって双子の兄妹を産ませ、その兄(シークムント)に無敵の霊剣を与え、指輪を取り戻させようとする。しかし、双子の兄妹は恋に落ちて愛し合うようになり、妹(ジ-クリンデ)は意に沿わぬ結婚をさせられていたこともあって、二人は、近親相姦と不倫の二重のタブーを犯してしまうことになる。ヴォータンは見て見ぬふりをするが、結婚をつかさどる女神でヴォータンの妻のフリッカが、ジークムントを罰することを強硬に要求する。ヴォータンは、神々の庇護を受けていないがゆえに契約から自由な人間の英雄こそが世界を救うことができるのだと強弁するが、フリッカは、ジークムントも実はヴォータンの操り人形に過ぎないと、ヴォータンの構想の急所を突く。(いや、ここは、君って、そんなに頭がいい人だったのか・・・という箇所でしたね 笑)これには、ヴォータンも折れ、自分の娘で戦いの乙女のワルキューレたちの長女、ブリュンヒルデをつかわして、ジークムントを死に至らしめるように命じる。

ブリュンヒルデは地上に降りてジークムントに会い、彼の運命が定まったこと、しかし、勇士として天上に上り、神々の宮殿で美しく高貴な乙女たちが美酒の杯を満たす「甘い生活」が待っていることを告げるが、妹にして妻のジークリンデを愛するジークムントは、あくまで彼女とともに地上に留まると宣言する。この勇士の愛に深く心を動かされたブリュンヒルデは、父ヴォータンの命にそむいて、戦いの場でジークムントを守るが、ヴォータンが自ら戦いに登場し、その槍でジークムントの霊剣を叩き折り、ジークムントを死に至らしめる。

ヴォータンは命にそむいたブリュンヒルデを天上から追放し、深い眠りの中に閉じ込めるが、彼女の懇願に負けて、その眠りを覚まして彼女を妻にすることができるのが、真の勇者だけであるように、彼女が眠る岩山を炎で包む。その勇者とは、次の作品で登場するジークムントとジークリンデの息子、ジークフリートである。彼には、父親の霊剣を鍛えなおし、その霊剣で、今度はヴォータンの槍を叩き切るという仕事が待っている。

と、下手な要約のようなことをしてみました。

演出上、一番インパクトがあるのは、やはり、「ワルキューレの騎行」が演奏される場面だろう。ワルキューレたちは、戦場で斃れた勇士たちを介抱する看護婦であるという設定になっている。8人のワルキューレたちは、救急病棟の中に現れ、現代の看護婦の格好をして、赤い赤十字の形の盾を手に持ち、傷を負って死んだ勇士たちを搬送車(というのだろうか)に乗せて、点滴をしながら介抱している。救急病棟の赤い非常灯が回転し、搬送車を押すワルキューレたちが、白衣を血で染めて縦横に駆け巡るありさまは、深く心に刻まれる。

この、従軍看護婦としてのワルキューレの描き方は、ただの奇想やこじつけではないような気がしていたのだけれども、プログラムを読んだら、鶴岡真弓さんというケルト美術の研究者が解説を書いていて、蒙を啓かれた。ワルキューレというのは、馬を駆って天をゆく戦いの乙女としての姿を得る前のケルトや北欧の神話では、戦場で負傷者にゴブレットで飲み物を与える治癒の施し手であり、介護者であったそうだ。トーキョー・リングのハイパーモダンな救急病棟は、ワルキューレたちがもともとの姿に帰ったわけである。

・・・で、悪乗りして、余計なことを書くと、医療ドラマで、看護婦たちが病棟を決然と歩いていくときの音楽は、やっぱり「ワルキューレの騎行」なんだ。この音楽は、映画『地獄の黙示録』で使われてから、破壊性の象徴のように思われているが、しばらく前に人気があった看護婦ドラマの主人公の観月ありささんが映画のポスターでマシンガンを持っているのは、神話までさかのぼることができる、破壊と看護の両義性の急所を押さえていたんですね(笑)