『文明の文法』

必要があって、フェルナン・ブローデルがフランスの高等学校(いわゆるリセ)の学生のために書いた歴史の教科書を読む。文献は、フェルナン・ブローデル『文明の文法 世界史講義』松本雅弘訳(東京:みすず書房、1995)

高等学校の歴史教科書といっても、日本の感覚でいう高校の歴史教科書よりもだいぶ水準が高くて、もし大学の教養課程の必修で「世界の歴史」という授業があるとしたら、こんな教科書になるのだろうなという感じの書物。そういった内容の書物を、20世紀最高の歴史家のブローデルが書いているのだから、これは、本来ならば、文庫化されてひろく読まれなければならない書物である。ところが、みすず書房が翻訳の版権を取ってしまったため、硬表紙の上・下の二巻として訳され、合計すると1万円を超えるという、ばかげた価格の書物になってしまった。 

この書物の冒頭で、文明と文化はどうちがうのか、文明の歴史と社会の歴史はどう違うのか、といった基本的な問題が、私たちプロの歴史学者にとってもはっとする形で論じられている数章があって、ときどきインスピレーションを求めて、読むようにしている。疫病の流行と、その流行を可能にする「文明の構造」の関係について、何かぴたっとくるような、そして考えを広げてくれるようなことを言っていないかなと思ってページをめくっていたら・・・やっぱりあった(笑)。というか、ブローデルの中に名せりふを探すように、私たちが条件付けられているのだろうけれども。

「フォントネルの寓話を借りていえば、文明の歴史は、薔薇の花がいかに美しくとも、薔薇の歴史ではなく、薔薇たちが不死だと信じている、庭師の歴史なのだ。すなわち、社会や経済、幾多の短命の歴史上の出来事からすれば、文明もまた不死と見えるのである。」

フォントネルの寓話というのは、『世界の複数性に関する対話』(1683)に登場する寓話で、短命な薔薇には庭師が不死に見えるという内容。19世紀には広く人口に膾炙していた寓話らしい。