アテナイの疫病

必要があって、トゥキュディデス『戦史』の第二巻にある有名な「アテナイの疫病」の記述を読み直す。村川堅太郎責任編集の中公世界の名著から。

ペロポンネソス戦争の最中である紀元前430年の夏に、スパルタなどに包囲されたアテナイに疫病が流行した。その流行で指導者のペリクレスも死亡し、アテナイの黄金時代、そしてギリシアの民主政が終焉することを象徴する疫病として、歴史に名高い。この疫病が有名なのは、それ自体が重要だということももちろんだが、「科学的な歴史の父」と呼ばれ、おそらく西欧の歴史家の中で最も高名なトゥキュディデスの『戦史』の中で描写されているからである。その記述は劇的であると同時に抑制がきいて格調高く、何度読んでも、臓腑をえぐられるような恐怖と戦慄を感じる。

トゥキュディデスが「一説によると」という形で伝えているところによれば、この疫病はエチオピアで発生して、エジプトを経由してオリエント一帯に広まった。そして、トゥキュディデス自身がこの病気にかかって治ったので、その臨床的な記述は詳細である。

それまで健康体であったものが、とりわけて何の原因もなく突然、頭部が強熱に襲われ、眼が充血し炎症を起こした。口腔内では下と咽喉がたちまち出血症状を呈し、異様な臭気を帯びた息を吐くようになった。これにつづいてくさみを催し、咽喉が痛み声がしわがれた。まもなく苦痛は胸部に広がり、激しい咳をともなった。症状がさらに下って胃にとどまると吐き気を催し、医師がその名を知る限りの、ありとあらゆる胆汁嘔吐がつづき、激しい苦悶をともなった。(中略)皮膚の表面に触れると、さほど熱はないが、蒼白みがうせ、赤みを帯びた鉛色を呈し、こまかい膿疱や腫物が吹き出した。しかし体内からは激しい熱が体をほてらしために、ごく薄手の外衣や麻布ですら身につけると我慢ができず、裸体になるほかは耐えようがなく、できることなら冷水に身を投げ入れればどれほど心地よかろうか、と思うほどであった。

この部分は、ヒポクラテス派の影響を受けたのではないかといわれる文体で書かれており、またこれだけ詳細な記述があると、お医者さんが「診断」したくなって、色々な病気がサスペクトされているのは、仕方がない。(でも、まだ決着はついていないらしい。 興味がある方がもしいたら、Paul Slack の Epidemics and Ideas の中に、詳細に論じた論文が収録されています。)

このように、身体的な症状も詳細に描きこんでいるが、これは必ずしも記述のハイライトではない。むしろ、身体症状の苦痛と恐怖は、悲劇の第一段階として、物語りの冒頭におかれている導入にすぎず、戦慄は、これからクレッシェンドしていく。戦争にそなえて地方から移民してきたものを描く歴史家の筆は、極度の緊張をたたえた抑制をもつがゆえに、その戦慄が高まっている。

「このただでさえ容易ならぬ事態をいっそう窮迫させたのは、地方から都市への集団入居であった。(中略)すむべき家もなく、四季をつうじてむせかえるような小屋がけの下に寝起きしていた入居者たちを、死は露骨な醜悪さで襲った。次々と息絶えていくものたちの体は容赦なく死体の上に積み重ねられ、街路にも累々ところがり、ありとあらゆる泉水のまわりにも水を求める瀕死者の体が蟻集していた。入居者たちが小屋がけして暮らしていた神殿諸社は、その場で息を引きとる者たちの屍で、みるみる満たされていった。」

「死は、露骨な醜悪さで襲った」が効いていますね。

そして、トゥキュディデス描く疫病の恐怖が最高潮に達するのは、道徳が崩壊し、自暴自棄になった人々で街が満たされるときである。

「そしてついにこの疫病は、町の生活全面にかつてなき無秩序をひろめていく最初の契機となった。人は、それまで人目を忍んでなしていた行為を、公然と行って恥じなくなった。金持ちでもたちまち死に、死人の持ち物を奪ったものが昨日とはうって変わった大尽風を吹かせる、という激しい盛衰の変化が日常化されたためである。(中略)そして、宗教的な畏怖も、社会的な掟も、人間に対する拘束力をすっかり失ってしまった。神を敬うものも、そうでないものも、みな同じ悲惨な死をとげていく、法律を犯しても裁かれて刑を受けるまで生命があろうとも思われぬ、いずれにせよすでに死の判決をうけ処刑を今か今かと待つばかりの自分らなのだ、首が飛ぶまえにできるだけ人生を楽しんで何がわるかろう、という思いがだれの胸にもあったためである。」