知識の工場としてのパブロフの実験室

必要があって、パブロフのイヌの消化腺の実験を詳細に分析した書物を読む。文献は、Todes, Daniel, Pavlov’s Physiological Factory: Experiment, Interpretation, Laboratory Enterprise (Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 2002).

パブロフは1904年にイヌの消化腺を明らかにした業績でノーベル賞を受賞するが、それ以前も、ノーベル賞の創設から連続で毎年ノーベル賞の候補となっていた。そのたびにノーベル賞委員会で議論となっていたのが、パブロフの業績は、どこまで「パブロフの」業績なのか、という問題であった。これは、パブロフが他人の業績を盗んだとかいう話ではない。むしろ、パブロフは余りにも「正直」であったとさえいえる。受賞の主たる理由となった『主要な消化線の作用についての講義』(1897)は、自分が所長であったペテルスブルクの実験医学研究所の実験室全体の業績であると明記し、重要な証拠として、研究所の助手や研究員たちが書いた論文を引用している。実験医学研究所の所長に就任するとともに、パブロフは、それまでの不遇で孤独な科学者であることをやめ、数多くの「従業員」を使って科学的な知識を生産する「工場」の「支配人」となった。(念のために書いておくと、これは、パブロフが研究をやめて弟子に仕事をさせるようになったということではなく、知識を生産するためのシステムを設計するようになったということである。)この書物は、この時期のパブロフのチームのメンバーを同定し(入れ替わりを入れると合計で100人くらいになるという)、成果としての論文はもとより、保存されている実験ノートなどの資料を駆使して、複雑な組織を持つ巨大な知識生産工場と化したパブロフの実験室の知的・社会的なダイナミクスを再構成した力作である。

記述は分かりやすいけれども、書かれている内容があまりにも詳細なので、残念だけど必要そうな箇所だけ読まざるをえなかった。(パブロフの助手たちはもちろん、特定のイヌに関する章まである。)その中で、パブロフは知識の工場のマネージャーであったっだけではなく、彼自身が、同時代のロシアで著名であった化学者で周期表で有名なメンデレーエフの概念を借りて、動物の消化腺を「化学工場」にたとえていること、これは、産業革命を経験していて、当時の花形先端産業であった化学工業を念頭においていることが、着実な実証と素晴らしい洞察とともに分析されていた。