養生と人間形成論

必要があって、瀧澤利行『健康文化論』(東京:大修館、1998)を読み直す。

日本で社会の中の医学・医療という問題を考えるときに、「養生」の問題を避けて通ることはできない。「養生」というと、現在では貝原益軒の『養生訓』(1712)が有名だけど、この本は、現在の健康ブームと似ているところと、違うところを持っている。益軒の養生論の基本は無病長寿のための「養生」とという姿勢で、これは、現在の「健康日本21」のような話と同じような内容である。「元気に長生きする<ために>、xをしましょう、yをやめましょう」というスタンスである。一方、益軒に見られる、政治体制に密着した儒教道徳を健康論に織り込んで行くことは、現在の私たちには違和感がある。(これは、儒教道徳に違和感があるのか、それとも健康論に道徳がくっきりと出てくるのが違和感があるのかは、よく分からない。)

瀧澤の書物の面白いポイントは、現在では著者や書物名としてはほとんど知られていない、江戸時代後期の養生書群である。有名な著者が書いたわけではないが、数多く出版されたし、例えば貸本などを通じて盛んに読まれた。この後期養生書においては、無病長寿との関係はむしろ薄れ、それにかわって、人間形成・教育などを包摂する概念としての「養生」が現れてきた。「養生」は、ほとんど「教育」「人間形成」と互換してもいい概念になった。(例えば、小児のにぎにぎなどの遊びを列挙して、「一つとして養生でないものはない」といっている用例が引かれている。)このように、「養生」が、教育・子供の人間形成の中に織り込んだことは、国学や心学などハイカルチャーの知識人たちが、一般人にその思想を説くときに、養生の文脈を用いて啓蒙しようとしたことと関係がある。

この事態は、色々な表現の仕方があると思う。例えば、国学や心学など江戸の新思想が、その思想を「身体化」するものとして養生論を考えたということもできる。そうなると、身体が思想を表現する場になるということだ。一方で、養生というか、健康法というか、それが語られる社会的な地位を、低いところで固定したと考えることもできる。現在のTVの健康法番組を見ると、それが、視聴者を余りに幼児的に扱っていて、また、そこに登場するタレントも、本来もっと賢いはずの人が、急に幼児的なことを言い出すのをいぶかしんでいたけれども、もしかしたら、この、「俗衆向けの養生」と関係あるのかな。