黒田清輝


必要があって、黒田清輝の画集を眺める。いい画集が意外になくて、中央公論社から出た『日本の名画』シリーズの第五巻を見た。収録している絵は多くないし、印刷もいまの水準と較べてしまうと悲しい出来だけれども、山崎正和がエッセイ風の文章を寄せ、若き高階秀爾印象派と日本の近代絵画について書き、陰里鉄郎という専門家がよくわかる解説を書いている。

山崎正和の人物と作品の分析の仕方には、不思議な魅力というか、不思議な説得力があって、この短いエッセイでも「山崎節」は健在だった。黒田の、画家としての、そして成功した貴族院議員の美術行政家としての人生の秘訣を、山崎は次のように表現している。

「ひと言でいえば、それはあらゆる事件の意味をその現実の大きさ以上に誇張しない才能であり、その結果、あらゆる事態にたいして過剰に反応しない才能だといえる。それは事態を冷静に処理する知的な能力をも含んでいるが、それ以前に、事態にあわせて自己の人生への要求を調整しうる感情の能力のうえになりたっている。(中略) 多くの場合、人間の人生上の要求は極度に硬直しているのが特色であって、それが危機に直面すると、しばしば適度の調整を捨てて悲劇的な孤立が逆に過剰適合を選ぶことになりやすい。だが、当然かずかずの危機に満ちていたはずの清輝の生涯をふり返ると、そこにめだって欠けているものは、この孤立の悲愴感と過剰適合のシニカルな表情だといえる。」

さすがにこの「必要」は、どんな「必要」なのか、説明を書き添えます。日本の近代化と身体感覚の歴史を調べるのに、裸体画を使うことはできないのかなと思いついてしまっただけです。特に、黒田清輝の「智・感・情」は、身体の歴史やカルスタの文脈で、色々な使い方ができるのでしょうね。

画像は「智・感・情」から、「情」の女性。悲しみや悲哀の表情で「情」を表現しようとしている。日本の洋画史上のシンボリックな位置から言っても、背景を金箔で塗りつぶしている日本画の手法からいっても、これは「日本の近代化とメランコリー」のような本の表紙にぴったりですね(笑)