黒田清輝と明治のヌード



必要があって、黒田清輝と明治のヌードの研究書を読む。文献は、勅使河原純『裸体画の黎明―黒田清輝と明治のヌード』(東京:日本経済新聞社、1986)

黒田清輝を中心に、明治初期の日本の洋画家たちが、日本美術界に裸体画を定着させようとした状況を、具体的な作品の分析を通して論じた書物。洋画家たちが裸体画を定着させようとした姿勢は「及び腰な努力」というべきものであった。裸体画を通じてある「観念」を表す伝統を持たない日本においては、裸体画は「風俗」をあらわすこととなってしまい、常に風俗擾乱のそしりを受ける危険があった。実際、黒田清輝が明治28年に日本内国勧業博覧会(京都)に出品した裸体画である「朝妝」(ちょうしょう・あさげはい)は、その二年前にフランスで高く評価されたにもかかわらず、裸体画が文化を毒するかどうかをめぐって激しい議論がまきおこっていた。この論争から二年後の明治30年に、清輝が製作して出品したのが「智・感・情」である。この絵画は、三幅対に金地の背景という日本的な形式で、しかも日本人のモデルを用いているにもかかわらず、裸体画を通じてある観念を表現しようとしたものであった。その観念とは何かというのは、当時から色々な解釈があり、東洋思想だとか文殊だとか色々言われていたが、清輝自身は、後年、当時のフランスの絵画の三つの流派である理性的なアカデミズム、感覚を重んじる印象派、写実を重んじる写実主義を表したものに他ならないという、ちょっと肩透かしのような種明かしをしている。この絵画はその三年後の1900年にパリの万国博覧会に出展され、銀賞を受賞していたが、当時の日本人にとっては、不可思議でなじめない絵だったという。

ついでに言うと、本書が軽く触れていることだけど、西洋美術の教育にはもちろん解剖学も付随していた。特に19世紀フランスは芸術学校の解剖学教育が進んでいて、フランス帰りの久米桂一郎は、東京美術学校で実地の「芸用解剖学」を講じたそうだ。当時学生であった高村光太郎はこの講義に感激し、帝大の解剖学教室を訪れて人体研究に熱中した。高村がいうには、病死した死体は筋肉がぺちゃんこになってしまうが、死刑になった死体は筋肉が生きているように盛り上がっていたので、「目のさめるような思で勉強した」という。

画像は、智・感・情のうち、上から「感」と「智」らしい。実は、「智・感・情」のうち、「情」は確定しているけれども、「智」と「感」には、食い違いのようなものがあるようで、本当のところは私はよくわかっていない。