『日本儒医研究』

必要があって、安西安周『日本儒医研究』に目を通す。昭和18年に刊行された書物を1981年に青史社という出版社が翻刻したもので、日本医学史の黄金時代に書かれたほかの本と同じように、情報量が多い本で、江戸時代の「医者の儒学思想と儒者の医学思想」についてのレファレンスとして使うと重宝な書物である。

律令制は典薬寮という組織をもち、そこに勤めているものが医者であるという、法律によるで明快な医者の定義と位置づけをもっていた。医者の位階はたいして高くはなかったが、それでも国家の階層秩序の中に確固たる位置を占めている「官人」であった。律令制の形骸化とともに、医者を社会の秩序の中に定位する枠組みがなくなった。そのため、鎌倉・室町時代には、医者は仏教僧が兼ねたり、医者も僧の形態をして頭を丸めたりしていた(僧体)。江戸時代の身分制社会の成立とともに、医者は社会的な位置を確保する必要が発生して、知識人で本を読むことができた医者たちは儒学者と寄り添おうとした。その脈絡で「儒医」という概念が出てきた。医者と儒者は一つのものであるという説である。(儒者の身分的な位置づけがそんなに確固たるものだったかどうかはわからないけれども。)

しかし、この医者と儒者の同一視は、儒者をもって自ら任じるものたちからは強い反発があった。伊藤仁斎は、儒者が医者を兼ねること、医者が儒者を兼ねることを激烈な毒を含んだ言葉で批判した。(この人はいつでもこういう激しい性格の人だったのだろうか・・・と不安になるほどである。)仁斎によれば、人の名を盗んで俗を欺くのは卑しい。医で儒をうかがう者は、小道であり、賎工である「医者」と同列に並ぶのを恥じて、ひそかに儒者に列し、その名をかたろうとする卑劣なものである。いまのいわゆる儒医は、医によって利を求め、儒によって名を求めている。彼らは書物を読んで、医は小道であると知っているから、儒を名乗る。しかし、儒だけだと、利を得ることができない。だから、医を学んで利をむさぼり、そのかたわら文芸を学んで儒の名を買うのである。

この毒を含んだ「儒医」論への批判の背後にあるのは、江戸時代の高学歴ワーキングプアの問題といってもいいかもしれない(笑)。 大名のお抱えでも私塾でも、儒者として「食っていける」者が少なく、その一方では学問を身に着けて知識人の職業につける・つきたいものが多かったとき、医療は魅力的な副業であった。実際、この「儒医」論が現れたときに、「儒者の多くは、実際に医療を営んでいる」という事実も、賛成の理由とされたという。

だからこそ、仁斎先生、もう少しお言葉を和らげてもいいんじゃないかと思うのですが(笑)