朝鮮使節の見た中世日本

必要があって、宋希ケイ(ケイはたまつくりに景)『老松堂日本行録-朝鮮使節の見た中世日本』村井章介校注(東京:岩波文庫、1987)に目を通す。

1420年に日本に来て将軍足利義持に謁見した朝鮮使節、宋希ケイ(ケイはたまつくりに景)がしたためた紀行文である。紀行文の中心は漢詩で、解説によると、日本で耳目に接した卑賤のことも漢詩に仕立ててあるとのこと。中国語から観たときに外国語の地名も多いのに、よくそれを詩にできるなあ。昔の中国文化圏の知識人の韻文能力はただ驚くばかり。

ソウルから対馬・博多を経て、海賊がたむろする瀬戸内海を経て京都に向かって、その途中で経験したことが記されている。対馬では、この島の倭奴は青菜のように顔が青白く(「菜色あり」と表現されている)、これはきっと飢饉であるに違いないと推測している。(44) 兵庫・西宮では、人に遊んでいるもの(遊手)が多く、農民は少なく、飢民が食を乞うている声を常に聞くということを詩に仕立て、日本には人が多く、飢えた人が多く、また残疾が多く、あちこちの路辺に会して坐り、行人に逢えば即ち銭を乞うているという説明をしている。(96-7)「残疾」というのは、もとは律令の言葉で、「廃疾」ほど重度ではないが、障害を持つ人たちのこと。帰路に尼崎のあたりで記した、日本では稲、ソバ、麦の三毛作が行われていて、水路をふさぐと水田になり、水路を開くと陸田になるという記述は、水田における水の管理が完成したことを示唆している。(144)