ロボットが平安の官女と交接すると

必要があって、田中貴子百鬼夜行の見える都市』(東京:ちくま学芸文庫、2002)を読む。以前から読みたかった本で、期待にたがわぬ面白い本だった。

全体の議論としては、百鬼夜行を平安京の都市論に位置づけようという書物である。『今昔物語』などに現れる「百鬼夜行」という現象は、都のある一定の土地に現れ、それは陰陽師に深い関係がある土地であるという。平安京は、清浄で合理的な王都という理念に呪縛され、その理念を保つために、内裏の境界で怪異や穢れを常に排除する行為を行わなければならなかった。その、いわば霊的な王のための公衆衛生とでもいえるメカニズムのキモにあたる部分に百鬼夜行が現れた。だから、たとえば病気を起こし馬に乗った神である疫神のイメージも百鬼夜行に重なるという。

この魔界への公衆衛生の話と重なるのが、穢れを一身に引き受けた被差別民(「穢多」)の発生に関する神話である。穢多の発生については、その起源がヒトガタと女性が交わってできた子供の子孫だという説があるそうだ。陰陽師が穢れをつけて水に流すヒトガタ(人形)をもともとの発想にしているが、この神話だと、飛騨の大工がつくったきわめて精巧な木偶のヒトガタがあり、それは大工のロボットというべきもので、日中は人間と同じように大工仕事をすることができた。このロボット(木偶)が、夜は休んでいたというが、どういうはずみか人格を得て、官女に恋をして交わって生ませた子供が、川原で死んだ牛馬をむさぼりくって増えたのが穢多であるという言い伝えがあるそうだ。人間とロボットのハイブリッドの子孫が被差別民というわけか。 ・・・この話はきっと、外国人の日本研究者に圧倒的な人気があるのだろう。 というか、手塚治虫がもうマンガにしているかな(笑) 

本書の冒頭におかれた「心の鬼」に関する議論が、『源氏物語』とか『蜻蛉日記』などの用例から「心の中の他者」という、心理モデルのようなものを考えさせる深みがあって、とても面白かった。