新潟の恙虫

未読山の中から、新潟の恙虫病に関する概観としては最も古い論文を読む。文献は、山崎元修「山崎学士ノ恙虫被害地並ニ其病性取調上申書」『北越医学会会報』No.144(1904-5), 605-640. 

新潟の恙虫病というのは、新しい医学史のモノグラフが書かれる条件をすべて備えているといっていい。その地域限定性といい、疫学的な興味といい、資料が極めて豊富に残っていることといい、北里柴三郎をはじめ、宮島幹之助・淺川範彦など北里一門の大物が関与していることなど、博士論文の主題としてこれほど恵まれたものは少ない。

この論文は、1904年に出版されているが、書かれたのはそれよりも20余年前だという。当時の新潟医学校の校長であった山崎元修という学士が、時の県令に命じられて県下の恙虫病被害地を調査し、その所見を記したものである。J.U. なるものが、たまたま旧医学校の書架にこの手稿を見つけて、散逸を恐れてこれを出版したものである。信濃川から六日町川、早出川、阿賀川などの沿岸にある村を訪ね、南蒲原、三島、古志、南魚沼、中蒲原、北蒲原などの郡にある村々について、恙虫病がいつ始まったのか、どのような土地にあるか、ということを細かく記したものである。

そこで山崎が繰り返し書いていることは、河川敷の土地を開発した直後に恙虫病が発生しやすいということであった。たとえば、南蒲原郡の西野村は、信濃川の南岸にある村で、戸数43、人員220人ばかり。堤防の外にそった附洲(「つきす」と読むらしいが、実は何なのかよくわからない)があって、その一部は低い新しい洲で、いまだ不毛であって人が出入りしないが、もう一つは、ソバや麻などが繁茂する耕地になっている。この土地は、慶応三年に開墾して以来、村民は恙虫の毒に罹るようになり、明治13年にいたるまで、50名が死亡した。しかし、この3年ほど、「地が熟するようになって」、毒虫の害が減ってきた。中条新田の村では、土俗の言に恙虫病を「三条左衛門の亡霊」というくらいで、少なくとも100年前から恙虫病は存在したが、しかしやはり毒性が激しくなったのを覚えているのは33年前の開墾であった。その年には一年に50-60人もかかり、そのうち20-30人が死んだという。同じように、真野代新田も、33年前にもっとも激しかったが、今ではまったく消滅したという。