『生きることの近世史』

必要があって、ずっと読みたかった塚本学『生きることの近世史-人命環境の歴史から』(東京:平凡社選書、2001)を読む。医学史の視点から参考になることが非常に多く、もっと前に読んでいたらと、臍を噛む箇所がとても多かった。

国家の歴史を離れて、日本列島の住民の生命維持への努力の歴史を書こうというのが主な目標。時代区分に即して言うと、近代国家が住民の生命を強く管理する体制ができる以前に、「生命」がどのように構造化されていたのかという問いである。これは、フーコーのバイオパワーとだいたい同じ発想で言っていると思う。

医療知識とと医薬への欲求は、時代を超えた普遍的なもの―「本能的」といわれることが多い―もないわけではないが、これは歴史的・文化的なものである。戦国時代には、医療知識や医薬への欲求は、当人だけでなく、支配のためのものであった。君主が、すぐれた医薬についての情報を持ち、これによって人民を救済する体制ができれば、人民の生命は君主の恩恵によって維持されるという主張が現実化する。古代においては、国家が行う仏法と呪術によってこのイデオロギーが作られていたが、近世には、医療による支配の可能性が現実化する。

そのためには、すぐれた医療知識が集積される土地を押さえる必要があった。これは、中国から渡来したすぐれた医師・医学テキストが集まる京都であり、豊臣・徳川政権は、京都の医師を掌握しようとした。知識人や支配者層は、医薬について尋ねる手紙を多く書いた。江戸時代になると、水戸光圀は『救民妙薬』という書物を編纂して、医者がいないところで病人が出たときの対策をまとめて1693年に刊行させた。八代将軍の吉宗は、小石川の療養所を作ったほか、『普救類方』という3600種類もの処方を編纂した書物を1730年に刊行した。これは、幕府が編纂した官製の民間・自家治療の処方集であった。

民衆の医学的な教化も行われていた。間直瀬玄朔(まなせ・げんさく)は、1600年に『延寿撮要』という養生書を古活字元で出版して、人々に養生を教え、おもに『日用食性』も同じ時期に出版した。都市では貨幣経済の進展にともなって、「流行医者」という現象が生まれ、流行をめざす医者は、無理をしてでも衣装に気を配り、駕籠に乗って往診した。それがステータスシンボルだったからである。遍歴医は村を回って、おそらく村内の有力者の権威を高め、村の有力者は村に医師を招いた。これらの、医学知識に対する欲求は、「小農自立」と呼ばれる過程に付随して、大農民からの自立をめざしていた小家族の生の努力の現れであった。