戦前の人工妊娠中絶

必要があって、戦前の人工妊娠中絶に関する調査の報告を読む。文献は、渡部猛「人工妊娠中絶の統計的研究」『十全会雑誌』34(1929), no.279, 543-555. 

1948年に優生保護法が施行されて、経済的な理由による妊娠中絶を認めたことが、戦後の日本の人口動態に与えた巨大な衝撃は良く知られている。一方で、戦前にも「医学的な理由で」妊娠中絶は認められていて、これが日本の人口動態に果たした役割は、意外に注目されていない。この論文は、大正13年から昭和2年までの三年間の三重県・富田浜の飯田病院で人工妊娠中絶を受けた女性65人の調査である。この期間に診察された妊婦は484人だから、診察を受けた妊婦の13%が中絶を受けたことになる。

当時の中絶の原因としては、母体の生死に影響がある医学的中絶、優生学的な考慮に基づく優生的中絶、そして社会的中絶と三種類あり、認められていたのは最初の医学的な中絶だけであった。しかし、いったいどのような病気が母体の生命に影響があるのかという点については、医者たちの判断にはかなりのばらつきがあった。そして、たぶん、これが最も重要な点だと思うが、この論文では、医学的な中絶を、そのほかの二つと厳密に切り離して考えるのではなく、組み合わせて「医学的な中絶」にしようというロジックも使われている。すなわち、この論文の著者の言葉を使えば、貧民や労働者階級の妊婦に、肺結核や心臓疾患、腎臓疾患などの重篤なものが認められたときには、医学的社会的に中絶に適応しているとみなしていいとされていた。 言葉遣いから判断すると、富裕なものの肺結核は中絶の適応症ではないけれども、貧民のそれは適応症になるということになる。 「医学的な適応」は、その範囲を緩和して、社会的なものや、おそらく優生的なものも含めていいという、あいまいな合意のようなものがあったということになるだろう。