東北の飢饉と疫病

18世紀末の天明の飢饉を中心に、東北地方の飢饉の様子を概説した書物を読む。文献は、菊池勇夫『飢饉の社会史』(東京:校倉書房、1994)

飢饉がおきると、下層民衆は座して餓死を待つよりも、食料がありそうなところに移動した。藩の外に逃げる場合を「地逃げ」といった。これは、一時的な避難であった。領内にとどまった場合は、権力と富が集積する城下町が飢餓難民の対象となった。彼らは乞食・非人化して城下町で社会不安のもととなり、藩は施行小屋を建てて救済し、治安対策を行った。

たとえば弘前藩では、天明3(1783)年の飢饉で流民化した農民が、弘前に集まってきたときに施行小屋を建てて施しを与えた。しかし難民たちがこの小屋(大きな長屋つくりの建物だったが、「小屋」という)に殺到したので、このままのペースで施しを与えることができないのは明白であった。藩が考えたのは、飢饉難民の救済に非人を介在させることであった。施行を与える小屋を「非人小屋」といい、その運営に組織された非人たちをあてることで、一言でいうと飢饉難民の救済にスティグマを与えたことになる。八戸藩でも非人小屋において、非人組織を通じて救済が行われたが、そこでは難民たちが食人をおこなったありさまがおどろおどろしく語られていた。なお、難民救済の運営が非人組織を<意図的に>介在させて行われたことは他の藩でも広く行われている。このような救済は、領主権力が前面に出て儒学的な仁政として行われることもあったし、八戸藩のように、寺院の勧進行為という既存の構造を利用して行われることもあった。

餓死が一段落したころ、疫病がやってくる。夏から秋に飢饉がはじまって、翌年の2,3月から5,6月まで疫病が、5,6月ごろから痢病が流行して、死者がさらに大きくなるというのが一般的なパターンであった。ある資料は、「前年より甚だしき悪食ばかりして、体が疲れ心気も衰えており、病気になり、養生も看病も粗略で、食事は病人の口に合わないものばかりである」と説明している。これはなんて的確な指摘なんだろうと感心するだけでなく、江戸時代の人々が期待していた生活の水準が高かったことも示唆している。うまいものではなくとも普通のものを食べ、養生ができ、体が弱ったら養生ができて看病してもらい、病人向けのものを食べることができる。なお、病気としては、傷寒(熱病)、くだりはら(下り腹、下痢類のこと)、そして意表をついて「おこり」(瘧、マラリアのこと)があった。 

飢饉とそれに続く疫病の繰り返しの結果、疫病送りなどの民衆習俗が定着していく。東北では「ぼう」という疫病神をさす言葉があり、ボウノカミ、ボウカミ、ボノカミなどという。一方で、医者も、飢饉の時には薬を施して活躍し、ここで活躍すると藩のおかかえに召し上げられるチャンスでもあった。飢饉のときに現れて民衆を救って、藩に取り立てられる医者というのは、ちょっとした民衆のヒーローになっていたらしい。1853年に一揆の指導者が獄中から家族に送った手紙の中で、薬の製法を多数書き記されているという。そして、子供たちに、「医者は、まことに、ありがたき渡世で、薬をこしらえて、よき医者となるべき。なにとぞ名医となり、家内のものが、絹布を着る家になるように」といっている。

幕末や明治期には、本当は医者以外の職業につきたかったけれども、やむを得ぬ事情で医者になったという医者が多い。たとえば北里はもともとは軍人になりたかった。しかし、この岩手県三閉伊の農民は、飢饉では難民を救うヒーローで、妙薬を作れば家が富み栄える医者に強烈にあこがれている。・・・実は、私は、こういう医者の像―今の言葉で言うと人道主義と富を両立させることができる像―が歴史的に語られているのをあまり観た事がないから、これは面白かった。