杉田玄白の診療

必要があって、杉田玄白の日記に目を通す。文献は、杉田玄白杉田玄白全集 1』(東京:生活社、1944)玄白は有名な『解体新書』の著者、『蘭学事始』の著者。彼が「い斎日録」なる日誌をつけていた。(い斎の<い>の字は、説明の仕様もないくらい難しい字で、ウェッブ上から拾ってくることもできない 涙)現存するのは、多少のギャップを含めて、天明7年から文化2年まで。それまで門外不出に近いものであったこの日誌を、玄白の玄孫にあたる杉田六蔵から借り受けて、原田謙太郎が編集して60年以上前に出版したものが本書である。

これは、もちろん生の資料に近いものだから、丁寧に読んでいる時間はなくて、情報などを拾うつもりで目を通しただけだけれども、とても面白い。基本は、診療でどこそこに行ったという、営業の記録である。診療の内容までは書いていない。それに、雨が降ったとか、墓参りにいったとか、自分の具合が悪くなったとか、寒かったから綿入れを着たとか、知り合いの人事とか、まあ、日記に書きそうな日常の雑事が書いてある。ときどき、人から聞いた面白い話しとか、自分がつくった漢詩とかがはさまれている。

一番使えそうなデータは、やはり診療だろう。診療のために、江戸中飛び回っている。一日に、2箇所、3箇所くらい、多いときには4箇所くらいを回っている。これから、杉田玄白の診療地図のようなものを作ることができるだろう。これが、武家の居住地と町民の居住地を分けることができれば(江戸に詳しい方、できますか?)、どの階層から需要があったのかも分かる。よく行く場所として、「吉原」も目につくけれども、これは遊女か遊郭関係者の性病などの治療だといえるのかなあ。杉田先生、なぜそんなに吉原に行くのですか?(笑) 

ちなみに、年によっては、年末に一年の収入も記されていて、寛政7年には、薬礼が401両、「上よりくだされた」のが73両で、藩医としての俸給の6倍近くの診療での収入があった。今の国公立大学の医学部の先生は、いくらなんでも、大学からもらうお給料の6倍を、私的な診療で稼いではいないと思うけど。