バビロンの処女市


今日は、無駄話をする。

古いTLS(15 May 2009)に目を通していて、Stephanie Budin という学者が書いた本 (The Myth of Sacred Prostitution in Antiquity, Cambrdige University Press, 2008) の書評が目にとまった。これは、いわゆる「バビロンの処女市」は実在しなかったことを論証した書物だそうだ。

この話の起源はもともとヘロドトスで、それによれば、バビロンの乙女が年頃になると、神殿の前に行ってそこに座り、外国人に「買われる」のを待つという。金を投げ与えた男には必ず抱かれ、その金を神殿に捧げた。これは、「神聖な売春」が古代のバビロニアやオリエントには存在したという観念を生み、後にオリエンタリズムのファンタジーの中に入って、西欧の男たちの心をわしづかみにしてめろめろにした(笑)。この書物は、そんな「神聖な売春」の習慣は実在しなかったことを、徹底的な調査と批判的な検討で論証した書物である。

もちろん私には、その議論が当たっているとかいないとか論じる資格はない。 この話は、いかにも物語好きで口が軽いヘロドトスが考えそうなことだし、いかにも同時代と後世の男たちが喜んで信じそうなことである。さらに、近代の女たちが結婚制度を批判するときにも、色々と使い勝手がいいテーマのような気がする。フェミニズム関連の議論で、「それって、バビロンの処女市じゃない?」っていう決め台詞は、概念的に厳密でなくてもインパクトが強そうだ。つまり、「バビロンの処女市」というテーマが、男にとっても女にとっても便利で魅力的な物語りであったのはなるほど納得できる。特に、ポストコロニアルの時代に生きるわれわれから見ると、いかにも創作されて信じられてオリエントについての幻想を再生産してきた話という臭いがぷんぷんする。だから、「神聖な売春」が、創作された<可能性がある>と聞いても、とくに驚きはしない。しかし、それが実在しないことを<論証する>というのは、それこそ、古典学とオリエント学の蘊奥を究めつくしてもまだ決着がつかない議論になるのだろう。書評の著者は、他の独立した証拠によって検証できない証拠は、全て「神話」であるという過度に厳密な態度は、非生産的にもなりうると言っている。そうかもしれない。

「バビロンの処女市」という言葉を私が知ったのは、高校生のときに、知人に勧められて曽野綾子さんのそのタイトルの短編小説を読んだときだった。小説自体は、お見合いをする若い女性の心理を描いたもので、当時の私にはピンとこなかった。(今でもピンとこないけど・・・笑)何がバビロンの処女市なのか、ほとんど憶えていなかったので、もう一度何十年ぶりかで読み直してみたら、主人公の若い女性は、自分の叔父さんに淡い恋心を抱いていて、その叔父さんに抱かれる夢を見たりしているが、その叔父さんに勧められてお見合いを何度かするという話だった。乱暴に言ってしまうと、お見合いがバビロンの処女市のようなものだというオチなのかなあ。曽野さんの小説と、歴史上のバビロンの処女市は深い直接的な関係があるわけではなかった。

あの頃は、「バベルの塔の狸」(安部公房)だとか、「バベル二世」(少年向けのアニメ)だとか、「バビロニア」という言葉に、不思議に印象的な力があったのだろうか。

画像は、世紀末のフランスの画家、エルンスト・ノルマンの『ボンデージ』。 舞台はエジプトだけれども、だいたい同じ系列のファンタジー。