江戸の人参熱

必要があって、江戸時代の人参熱について、人参の歴史のレファレンスをチェックする。 文献は、今村鞘『人参史』全七巻 (1934)、これは、思文閣から1971年に揃いでリプリントが出ている。

江戸時代の初期には、人参の薬効自体は知られていたが、人参を用いる医師は下手であるとまでいわれ、人気がある薬ではなかった。大道寺友山なる人物は、『落穂集追加』で、徳川二代将軍のころを振り返って、あのころは人参は一両につき白銀12,3匁くらいであったという。別の書物には、長崎では唐人が銀3匁くらいで売っていたとある。

五代綱吉から十代家治の頃にかけて、江戸時代の人参全盛期となる。これは、具体的には、寛文・延宝のころの数原通立という医者や林市之進という人物のPRによるものだが、その背景には、徳川吉宗の学問奨励策があった。医学界も、古方派の興隆をはじめ、革新とダイナミズムが導入された。本草学が勃興し、薬草・薬材についての知識が向上し、その栽培も幕府や各藩によって行われた。

こういった知的な背景とともに、経済的な状況も重要であった。経済力は向上し、庶民の生活が向上し、文化が普及して医薬思想が広がった。薬業者も増加した。人参売り下げ所(「人参座」)では買い手が前夜より行列を作って、順番をめぐって(だと思う)刃傷沙汰がおき、親の病気の人参代のために娘を遊里に身売りするという悲劇も生まれた。佐藤方定は『備急八薬新論』において、「親族の篤疾には、たとえ死んでも必ず人参を用いなければ、百年の遺憾とする」風潮が広まったと書いている。

人参は他の薬材とともに調合して売られることもあった。人参がどれだけ入っているかで、その値段が変わってきた。実体が見えなくなってしまうと、これをごまかす不逞なやからも現れた。薬種商から人参を直接買うことも行われたが、薬種商にも不逞なやからはやっぱりいて、医者と結託して暴利をむさぼるものもいた。また、竹節人参やアメリカ人参といった、産地を偽装したものも現れた。(このときに、薬の品質管理の原型が現れたのではないだろうか?)