細菌学と臨床医

必要があって、アメリカの医学における細菌学と臨床医の関係を論じた論文を読む。これも、昨日取り上げたジェイソンの論文と同じ書物に収録された古典的な論文。文献は、Maulitz, Russell, “’Physician versus Bacteriologist’: the Ideology of Science in Clinical Medicine”, in Morris J. Vogel and Charles E. Rosenberg eds., The Therapeutic Revolution: Essays in the Social History of American Medicine (Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1979), 109-134.

細菌学が医学に与えたインパクトは巨大であった。その内実だけでなく、実験科学の力を医者たちに見せつけ、医学全体にわたって科学のイデオロギーが影響を及ぼす契機となったのは、細菌学であった。1876年には、アメリカの著名な臨床医のエドワード・クラークは、昨今の医学の進歩を論じるときに70ページあまりをベッドサイドにおける達成に割いているのに対し、実験室医学には2ページしかあてていない。この段階では、アメリカの臨床医たちは、実験科学と臨床の根本的な亀裂を感じてもいなかったし、その間のギャップを埋める必要も感じていなかった。しかし、早くから実験科学が医学の中で確立していたドイツにおいては、この両者をどのように調停するのかという問題が認められ、調停の様態も模索されていた。たとえば1880年に刊行を始めた雑誌 Zeitschrift fuer klinische Medizin では、臨床が科学のエトスを共有するあり方が探られている。それは、形態的な損傷や病原体ではなく、人体の機能のパラメーターの厳密な測定に着目する方法であった。結核においても、細菌の研究ではなく、多様な病状をもたらす疾病過程の理解が、臨床医が力を注がなければならないことであった。あるドイツの医者の考えによれば、細菌学者は、病気との戦いにおいて、戦場にいないにもかかわらず現場への指令を出す不在指揮官のようなものである。

1890年代になると、細菌学が臨床医学インパクトを与えた最初の衝撃である、ジフテリア血清が開発され、各国で先を争って生産され用いられ、アメリカのエリートの臨床医たちが、微妙に異なった仕方で実験科学と臨床医学のすり合わせを唱えるようになった。 Rufus Cole, Samuel Meltzer, Alfred Cohn, Knud Faber など、私が名前を知らなかった医者たちのヴィジョンが分析されている。メルツァーは、医学という幹から茂った細菌学という枝は、あまりに茂りすぎて独立してしまった。幹に残された臨床医学は、それ自身の目的のための科学を独自に持つしかないという。