八丈島の天然痘

著者に頂いた、江戸時代の八丈島の痘瘡(天然痘)の流行についての論文を読む。文献は、香西豊子「医説の中の八丈島」『思想』no.1025(2009年9月号), 46-71. 著者は、私が深く尊敬する医学史研究の若手の実力者で、同じ『思想』に発表された「アイヌはなぜ『山に逃げた』か?」も、近世の天然痘研究の新しい可能性を示す力作である。 何よりも、日本の周縁の天然痘の流行を研究しようという着想がすばらしい。 

議論のポイントは三つある。

1)天然痘が常在化した近世においては、その流行が比較的少ない地域は、医者たちの注目を集め、なぜ少ないのだろうかという理論的な推測を呼んでいた。当時の学説では、すべての人は生まれたときに痘瘡のもと(「胎毒」)をもって生まれ、それが食餌や風土などによって刺激されて痘瘡を発するという、普遍的条件と特定の原因の二段構えの理論であったので、八丈島に痘瘡がないことは、そこの食餌が特別だとか、風土が違うとかいって説明されていた。

2)しかし、八丈島に痘瘡の流行がないわけではなかった。八丈島は流刑地であったから、もちろん本土(国地)との交通は厳しく制限されていたが、漂流民の流着や、痘瘡よけのお札などが流れ着いて、八丈島とその周辺の島嶼に爆発的な流行がもたらされることに、医者たちは気がついていた。1795年には人口6000人のうち、死者600人弱という大流行が起きている。この突発的なすさまじい流行は、八丈島には痘瘡がないという学説とその背後にある理論(胎毒説や風土説、食餌説)を麻痺させた。一方で、この事例は、痘瘡は人から人へ、あるいは物を介して「伝染」するという説を主張する中で用いられた。たとえば、橋本はくじゅの『断毒論』は、この事例を根拠にして痘瘡の伝染説を主張している。

3)しかし、1795年の流行が、江戸時代ではじめての八丈島の痘瘡流行ではない。それまでには痘瘡は流行し、大きな被害を出している。年代記によると、八丈島とその周辺の島は、1463年、1641年、1711年、1734年、1787年、1820年、1833年に大きな流行を経験している。それなら、なぜ、1795年の流行まで、医者たちは、八丈島には痘瘡はないという説にこだわってきたのだろうか?言葉を変えると、1795年のどんな状況が、八丈島の痘瘡をして医学理論の形成の要石となり、人々の関心を特別な仕方で集めさせたのだろうか?その理由は、たとえば江戸時代前期には徳川将軍の跡継ぎが痘瘡で死んで、痘瘡を退治する神である為朝明神の神社が八丈島から運ばれて幕藩体制の根本を痘瘡から守る神の本籍地としての八丈島という言説が強かっただとか、江戸時代の後期には、八丈島をめぐる状況が変わり、八丈島が黄八丈の生産など日本本土の経済の中に組み込まれただとか、国際関係において日本の領土的境界として特別な重要性を持ったといったことが考えられる。