蝦夷地の天然痘と種痘

必要があって、蝦夷地の天然痘と種痘を論じた論文を読む。文献は、香西豊子「アイヌはなぜ『山に逃げた』か?-幕末蝦夷地における『我が国最初の強制種痘』の奥行き-」『思想』No.1017(2008), 78-101.一日前に記事にしたものと同じ著者の天然痘論で、舞台は蝦夷地になっている。

1857年(安政四年)に、蝦夷地のアイヌに強制種痘が行われた。東西蝦夷地と国後・択捉の島部にいたるまで、20,000人弱の対象人口のうち、13,000人が種痘されたというから、当時でいうと、かなりの実施率である。この種痘は、当時、蝦夷地を直轄支配の対象にしていた幕府によって行われ、江戸の町医者と函館の医者で、種痘の技術を修得していたものが派遣された。

なぜ内地よりも早く、蝦夷地で強制種痘が行われたかというのが、この論文の問いである。まず、内地で行う前に、その実施可能性などを調べるための人体実験説、あるいは和人との交易によって天然痘が流行している尻拭いをするマッチポンプ説の二つの説を紹介し、どちらも棄却している。そのあと、国際関係の中で、特に当地に興味を示していたロシアとの関係において、アイヌが日本に帰属していることを明確にするために、フロンティアに日本人の身体と同じものである、種痘をされた / 天然痘にかからない・身体を作り出そうとしたのだという。言葉を換えると、日本人が痘瘡に一度かかって(今の言葉でいうと)免疫を持っていたように、アイヌに種痘をすることは、アイヌの体に日本の旗を立てることであったというわけだ。

この洞察は、当たっているかどうかは別にして、医学史のみならず、歴史一般についての極めて大きな問題に触れた、新しい考え方を示している。国民の身体の問題と、国家の領土の問題である。「領土の防衛を象徴する身体の規範化」というテーゼと考えるべきなのだろうか。