幕末尾張藩の医学

必要があって、幕末・維新期の尾張藩の医学についての短い論文を読む。文献は、岸野俊彦「幕末維新期の尾張の学問と医学」『名古屋医史談話会 会報』26(H11), 1-7. 

幕末の尾張藩の内部では、幕府にならって開国するか、それとも幕府に反対して攘夷を唱えるかの二つの党派に分かれ、頻繁に政変があった。その中で、攘夷思想の藩主でも、種痘には積極的に賛成していた。(種痘を、獣の体液を清い日本人の人体に入れることであり、けがらわしいことだと考える国粋主義者ももちろんいた。)

長州征伐や戊辰戦争などにともなって、藩内の医師の調査が行われた。私には、そのテクニカルなステータスの違いは分からなかったが、きっと医史談話会の人たちには常識なのだろう、「御用人支配お目見え」が10人、「御用がかりお目見え」が18、お目見え町医師が26、一段席が50人であった。なお、大規模な内戦に臨んで行われた次の調査では、二段席以下も含めて、総勢239名の名古屋の医者の名前が挙げられている。ついでに、71年に出版された新聞によれば、知多をのぞく尾張7郡で医者は485名。当時の人口は55万人で、医者が500人弱というのは、大都市の名古屋を控えているにしては、ちょっと少なめな感じもした。

そうか、幕末の戦争とそのための準備が、藩と侍による医学の近代化と制度化を駆動したんだ。当たり前だけれども、意外に気付かなかった事実だった。