チベット医学


必要はないけれども、チベット医学の祖の伝記を読む。文献は『ユトク伝』中川和也訳(東京:岩波文庫、2001) この書物をチベット語からの翻訳で、しかも学術的な註がついた文庫本(値段は1000円)で読むことができる文明国に住む幸せをかみしめる。今は品切れのようで、古書でしか手に入らないけれども、岩波書店は、日本が文明国でいられるかどうかの興廃がこの一戦にかかっていると心得て、すぐに増刷するべし(笑)実際、とても読みやすい血沸き肉踊る叙事詩の中で、熱性病と寒性病の区別が論じられたり、精液の増大法が語られたりしていて、読み物としても素晴らしい。

ユトクというのは、8世紀くらいに実在したチベットの医者で、伝承によると120歳まで長生きしたという。この書物は、ユトクの先祖の話から始まって、チベットに文明と洗練された医学がもたらされ、ユトクがインドの医典を訳し、多くの弟子を育てた経緯が叙事詩風に描かれている。この原本自体は17世紀に生きた人物により、医聖伝として編纂・出版されている。

医学が誕生し、チベットが文明化されて、諸外国の医学が受容されて、それが高度に高められる過程が物語風に描かれている。美しい女神が薬の種子を各地にまいて育て、薬木が茂る森をあちこちに生ぜしめる話は美しかった。(ここに、さまざまな薬が植物園的に植えられた庭園風の「薬園」という概念が出てこなかったことは、何か意味があるのかな。)また、二人の医者がインドから暗黒時代のチベット(「雪の国」と呼ばれていたらしい)に来たところ、人々は野蛮で、自分の親でも病気になると背負って捨てるような暮らしをしていたが、そこに文明とともに医術をもたらしたという話もよかった。この医者のうちの一人が王様から賜った妃との間に産んだ子供が、トゥンギ・トルチョという医者で、彼も王家の侍医となる。この侍医職が9代世襲されて、9代目が、この物語の主人公ユトクである。

多様な要素を含んでいる物語である。医学や治療のテクニカルな教えもたくさんあるし、医者の心得を説いた仏教的な献身の教えの部分もある。医学書の奥義をめぐっる冒険譚で、遠方の土地の山奥の洞窟にいっては、医学の奥義を授けられるという、『西遊記』にも似ているようなエピソードもある。そして、仏教の魔術のようなものを使った荒唐無稽な話もあって、ユトクを殺して肉を食おうとしている王の軍隊を魔法にかける話などはその代表だろう。さらに、1000人の娼婦たちの家に引きずりこまれたときに、精液増大法をつかって「億百のダキーニーと交わって喜悦させ、1000人の娼婦たちの幾人かは泣きだし、幾人かが失神し、幾人かが腰を抜かして倒れ、幾人かが彼女らの髪を引き抜いてそこにへたりこんでしまった」と書いてあるところをみると、ユトク先生は、その気になったら絶倫だったらしい(笑)文庫の表紙の解説は、この書物が持つ倫理的な価値を強調していて、本書が現在でもチベット医学の指針になっていると書いている。もちろん、それは事実なんだろうけれども、そんなことを書くと、チベットの医者はみんな絶倫なんですかと、まぜっかえしたくなってしまうじゃないですか(笑)。

画像は、チベットの解剖図。このてのものを、20世紀はじめのヨーロッパ人が模写したものが、ちょうどいま東京の森美術館の「医学と芸術」展で見せられている。オリジナルは17世紀のチベット医学の中で作られたというから、ちょうど「ユトク伝」が編纂された時代にあたる。