種痘の歴史

必要があって、幕末から明治にかけての種痘の歴史を読む。文献は、細野健太郎「幕末明治初期の埼玉県域における種痘」『国立歴史民俗博物館研究報告』No.116(2004), 301-315. 小川亜弥子「長州藩における牛痘種痘法の導入と普及」『国立歴史民俗博物館研究報告』No.116(2004), 155-178.

幕末の蘭学・洋学の需要には二つの側面がある。一つは、雄藩が蘭学に秀でたものを用いて軍事技術や殖産興業に応用した、支配層と結びついたテクノクラシーへと発展するものとしての蘭学・洋学。大村益次郎などがこの側面を代表する。もう一つが、蘭学を学んで地元に帰って開業したり在村の知識人として活躍したりした人材を生み出したという側面である。西洋技術の軍事力を育成した長州藩において、種痘がどのような経路と力学で全域に広まったのかという素材は、たしかにこの二つの洋学の側面の関係を検討するのにふさわしい。

長州藩の種痘には、長州の天保改革の一環として創設された藩の医学所の「済生堂」において1849年にはじめられた。医師の養成や再教育や先進医学知識の摂取などが行われた、いわば上からの啓蒙の機関が種痘をになったというのは、ヨーロッパではドイツ諸国のパターンと類似している。モーニケの長崎の種痘から2カ月あまりであり、青木周蔵の情報網がすぐれ、その情報を実現に移すメカニズムが素早く機能したということである。済生堂での種痘は、まずは医学所の医師たちが萩の小児を対象に行われた。子供であることを考慮して、種痘場には菓子が用意されたというのが微笑ましい。萩が無事に終了すると、次は諸郡への種痘であるが、それぞれの郡から医師を2,3名選抜して萩の種痘所に派遣して、連れて行った小児に種痘し、地方に帰ってその小児から痘苗を植え継いでいくという形を取った。実は、このような公式の形で上から行われるより先に、諸郡の代官から「萩でやっている種痘をうちでもしてほしい」という要望があった。萩の医学所で行われた種痘の伝習は、一年で100人余りの医師に種痘の方法を教えた。その医師たちは、武士身分と農民身分がそれぞれ半分ずつくらいであった。

長州においては、藩がリーダーシップを取り、地方の要望もあって、急速・広範に種痘が広まった。埼玉では、私領や幕領などが錯綜していて主導力を持った藩はなかったけれども、蘭学を学んだものたちの私的なネットワークを用いて、個別の在村医の主体性に依存した種痘が進行していた。