痛みを感じる政治

出張の新幹線の中で Prospect の記事を読む。この15年くらい読んでいるイギリスの中道左派系の月刊誌である。 James Crabtree, “The Hardest Word”, Prospect, 2010, Jan.

国家元首などが歴史上の過去の行為について被害者やその遺族などに謝罪の意を表明する機会が多くなっている。1970年に西ドイツのブラント首相がワルシャワ蜂起の記念碑を訪れた時に、花束を捧げた後で膝まづいて許しを乞うたことがそのはしりだという。その後、冷戦の硬直の中で反対陣営には一歩の譲歩もできないような状況が終わるとともに、歴史的な謝罪などの言説が議論されるスペースが生まれてきた。クリントン元大統領は「モニカのシークレット・サービス」(笑)について家族に公の場で謝罪したが、それ以外にも、ハワイ島の先住民や中南米の各国にかつてのアメリカの暴力について謝罪しまくった。オーストラリアの首相はアボリジニーに対する処置に関して、Sorry という言葉を三回繰り返したと記憶している。日本も、アジア諸国に対して謝罪をしているし(不十分だという人はもちろんいるだろうけど)、オバマ大統領が広島に来たら、きっと謝罪に近い言葉を発するだろう。デンマークの首相がアイルランドに対してヴァイキングが行った略奪を謝罪したように、パロディとジョークにすらなっている。人の痛みを感じ、被害と加害の当事者でなくても、謝罪のやりとりをすることは、国際政治の重要な「貨幣」になっている。

人の痛みを感じることはもちろんキリスト教の主イエスの十字架上の痛みを感じるということで長い歴史がある一方で、近代以降の歴史は、麻酔や鎮痛薬に代表されるように、痛みの除去を大きな目標にしてきたし、「痛みのポルノグラフィ」と呼ばれるように、他者の痛みを取り除くことは人道主義の重要な目標になっている。その中で、当人が感じたわけでない痛みに対して、加害者でない人がその痛みを感じて謝罪するという、不思議な痛みの経済がある。