『秋山記行』

必要があって、19世紀の秘境であった越後と信濃の国境にある「秋山郷」の探訪記を読む。文献は、『日本庶民生活史料集成』の第三巻に原文と詳細な注が入っているものを利用し、現代語訳も参照した。現代語訳は、鈴木牧之『秋山記行』訳・解説磯辺定治(東京:恒文社、1998)であるが、これはさらっと訳しただけのもので注もついていない。

1828年に越後塩沢の縮緬商人で文人の鈴木牧之が、信越国境で平家の落人伝説がある孤立的な秘境である秋山郷を訪れて旅行記を書いた。鈴木牧之は、(私は読んだことはないけれども)有名な『北越雪譜』の作者で、地方文人の雄。

秘境の人々の暮らし向きなど面白いことはたくさんあるけれど、必要だったのは天然痘についての記述。牧之が秋山郷を訪れたときにちょうど周囲の村で天然痘が流行していた。秋山郷は秘境だからめったに天然痘が侵入せず、一度侵入すると免疫を持っている住民が非常に少ないから大惨事となる。そのため、他の地域に比べて天然痘を恐れることが甚だしく、その衛生習俗は牧之たちを驚かせるものが多かった。子供が天然痘にかかると、感染を恐れて山に小屋がけをしてその小屋に閉じ込め、近隣から痘瘡にかかったことがあるものにお願いして世話をしてもらう習俗(いわゆる「痘瘡山」)もそうであったし、村境に高札を立てて、ほうそうがある村の者の侵入を禁止することも珍しい習俗であった。後者は、まぎれもない「検疫」のそれであるが、牧之は「こんな高札を立てても、商人や薬売りはどうせうそをついて入ってゆくのに、秋山郷のものは馬鹿正直なことだ」と笑っていた。じっさい、清水川原の村で村人に宿を乞うたときに牧之がまず聞かれたのは、「疱瘡はないか」ということだった。牧之が否定すると、村人は、痘瘡を恐れて今年は井戸蛙のようにどこにも出ていないと答えた。

この天然痘への特別な警戒とは別系統の話であるが、この素朴な秋山郷の健康水準を牧之は賛美している。これは、江戸後期に特徴的な医学思想のひとつで、文明と奢侈は人を不健康にするというものである。牧之も、秋山こそ神代の時代そのままの生活で長寿を享受している。栃の実、楢の実、栗、稗など、その土地相応の食べ物は天の恵みであり、それらだけを食べて生きている人間は健康であるという。太平の世が続き、都会人はもちろんのこと、里に住む人までもが、色欲にまよった生活をし、諸国からあがなわれた魚鳥を欲望のおもむくままに食べる。それと対比したときに、秋山郷の質素で局地的な生活は、人を健康にさせるものだという。これは、クロマグロは、大西洋で取れたものでなく、信濃川産のものだけを食べるとよいということだろう(笑)