戦時神経症

日本の戦時神経症の古典的な論文を読む。文献は、櫻井図南男「戦時神経症ノ精神病学的考察 第一篇 戦時神経症ノ概説」「戦時神経症ノ精神病学的考察 第二篇 戦時神経症ノ発生機転ト分類」「戦時神経症ノ精神病学的考察 第三篇戦時神経症ノ処理(其ノ二)」『軍医団雑誌』No.343(1941), 1653-1666; No.344(1943), 35-52; No.350(1942), 975-985. 3-1、3-3にあたる論文をまだ入手して読んでいない。文献一覧の記載は正確・完全にお願いします(涙)

過去は日本軍は戦争神経症に悩まされたことがないが、昭和12年の支那事変とともに散発するようになり、小泉軍医中将はその調査対策のための研究を命じた。その一環で行われたのが国府台病院の櫻井の研究である。櫻井の戦争神経症・戦時神経症研究について、皇軍には戦争神経症はないと信じていた軍の指導部と闘ったというようなことが書かれているのを見たことがある。もちろんそういう側面もあっただろうが、もともと軍(医)の上層部の決定の中での研究であったことは明らかである。

戦時神経症は一般の無関心・無理解が病気を増悪させる。神経衰弱、神経症についての一般の無理解は仕方がないが、軍医たちには精神病・神経症の初歩を知っておいてほしいから書いたのがこの一連の論文である。「何らかの理由で病気になりたいという願望が生じ、その結果病気を作るのが詐病、病気になるのが神経症である」という。このほとんどは精神的な原因をもち、また、心因性反応(刺激が精神に感動を生み、それを介して神経症となる)である。このような心因性反応はさらに二つに分かれ、ひとつはヒステリー、要償神経症のような目的をもつ目的反応、第二が森田が神経質と呼んだ一群の心因性反応である。これは疾病に対する恐怖を原因にもち、内向的で自己不全感が強く、自己観察をおもな特徴とする特殊な素因を持つ。

軍隊は、国民皆兵制度のもと、決して選ばれた人間のみでなく、社会の各部分各層の人間が流れ込んでいる。そして、その社会では、大正の半ばから昭和にかけて、外傷性神経症や要償神経症などが、工場、鉱山、鉄道に大きな問題を投げかけているのである。軍隊に戦争神経症・戦時神経症が発生しないはずはない。

櫻井が真のターゲットにしているのはもちろん一般の軍医たちである。「なにか訳の分からぬ症候を呈する患者に接した場合には、まず、これが神経症ではないかということを念頭におくべき」であるという。「よく分からないときにはまず神経症を疑う」という態度でも行き過ぎではないほど、神経症はすでに普遍的な状態となっている。初期の不適切な診断が病気を悪化させて治りにくくするという警告といい、「分からなければ神経症」というワイルドな言い方といい、櫻井たちは軍医たちに圧力をかけ、また神経症診断に誘い込んでいる。「戦時神経症は軍医の作品である」というせりふは、「あなたたち無理解な軍医のせいで私たちに増悪した患者が送られてきている」という意味にとれる。また戦時神経症は伝染病であるという例えは、軍医がもっとも気にする現象になぞらえている。桜井が置かれている状況が細かく分かると面白いんだけど。

戦時神経症の患者は、病気を治したいと思っていないから、病気にかかっていて健康に仕事ができない期間が、医学的にありえないほど長期間になってしまう。これでは医者と患者の間の精神的な交流はない。このような不愉快な傾向の存在を認めることがまず大切である。神経病は、ここに述べた「不都合な真実」のすべてを、色々の角度において映し出す。

戦時神経症と診察される患者は少ないし、別の診断で入っている患者もそれほど多くない。過去の病床日誌などを調べてみて、内科・外科あわせて入院患者の4%くらいだろうとしている。彼らは退院後もよくならないし、困っている。他覚症状がないから多額な恩給や優遇は与えられない。彼らはこれを不服・不当として恩給策定の不合理を口にし、執拗に陸軍病院に要求・懇願し、町村当局を困惑させ、近隣に不愉快を撒き散らす。自分(櫻井)はその手のことが書いてある手紙を日に何通ももらう。その中には「反軍的な」ことを言い出し、陸軍のやり方を批判する患者もいるし、患者に同情し、家族、知人、町村当局が軍医に談判にくる。患者が自分の疾患を重篤なものだと信じ、医官が気質的な根拠を発見しえないという食い違いが、この紛糾の根本にある。これを現行法規で解決することは難しい。

患者には暗示療法・心理的な操作が有効である。そこでは柔と剛を使い分けなければならない。功利的に病院にできるだけ長くいてぬくぬくと暮らしたいと思っている患者には、カルジアゾール痙攣療法をかませて威嚇を与え、病院に住むことを耐え難いほど苦痛なものとした。その結果、患者はわがままや功利的な願望を捨て、年余にわたる疾患が一朝にして治癒した。威嚇と強圧を加えて欲望を捨てさせることも必要である。痙攣療法の懲罰的使用についての一番パンチ力があるエピソードである。

ドイツのネーゲリたちも書いているが、これには「一時金解雇」がもっともよい。まずは外傷を治す、一時金を交付する、解雇して交渉を断つことの三つをすることが、もっとも治癒せしめ、面倒が少ない解決だという。しかし、陸軍の法規では、この方法は難しい。