日本文学の中の障害者

必要があって、近代以降の日本文学の作品で、障害者を重要な仕方で扱っているものを選び出し、要約・評論を付した本を読む。文献は、花田春兆『日本文学のなかの障害者像』(東京:明石書店、2002)

「障害の歴史」という研究主題がいま興隆しているけれども、ある研究主題が立ち上がるときには、大胆で魅力的な理論家も必要だけれども、こつこつと広範な資料をあつめて紹介する人も必要だし、ソリッドで鋭利なモノグラフを書いて学者たちにお手本を示す人も必要である。この本はその二番目のジャンルにあたる貴重な労作である。日本の文学作品を読んで、障害者が主人公になっていたり、障害の問題が主題になっているものなどを集めて、それぞれを紹介したものである。紹介の仕方には、作品にうかがわれる過去の障害者への偏見をあげつらう現在中心主義が目立つけれども、それでもこの書物の価値はとても高い。特に初学者の私にはとても貴重だった。たとえば知的障害児の子供を殺す夫婦を描いた岩野泡鳴「背中合わせ」などという作品や障害児との出会いを描く国木田独歩『春の鳥』などは知らなかったし、読んだことがある作品でも、障害の歴史研究に使う可能性について蒙を啓かれるものが多かった。

冒頭で紹介されているのは、福沢諭吉が明治5年に出版した「かたわむすめ」である。富家に生まれた娘に眉毛がなく歯が黒いという障害があった。(これはもともと寓話であるから、なんの障害かなどという遡及的診断をしなくてもいい。)近所の人々は、らい病の筋であるとか、親の因果だとか前世の宿業だとか言っていた。しかし、20歳を過ぎて結婚すると、この問題はきれいに片付いてしまった。日本では結婚すると眉を剃りお歯黒をする風習があるからである。福沢は「外国でこのような不具に生まれつきなば、生涯身の片付けもできないが、幸いにして日本国に生まれ、同胞のかたわが多いからこそ、人並みに一家の細君ともなった」と書いている。これは、日本の婦人の眉剃りとお歯黒を批判する文脈で作られた寓話だそうだ。話としては、眉剃り・お歯黒があってよかった、という方向に行きそうな議論ではあるが、そのあたりの詮索はまあいい。