流言蜚語と公・共・私

送られてきた雑誌を読まずに積んでおいて、その中の論文に素晴らしいインスピレーションを与えるものがあった。文献は、佐藤健二関東大震災における流言蜚語」『死生学研究』10(2008), 45-110.

関東大震災における流言蜚語の伝播の様子を分析して、そこから公・私・共の力学を読み解こうとした論文。公とは国家や警察などの公権力を意味する。「私」というのは、新聞がまったく機能しなくなった中、焼け出されて難民化して移動する人々からの噂話を聞いたり、あるいははるか東京の空の上に立ち昇る雲をみてあれは火薬庫が爆発したのだと解釈したりする側面であり、「共」というのは地域共同体などである。

「あえて単純にいえば流言は信じられないばかげた異常心理の産物でも、偏見差別を病因とする疾患でもなく、日常的なコミュニケーションに潜伏しているメカニズムが災害などの危機の状況においてにわかに活性化し増殖して現れた、いわば症候群にほかならない」91

制度化し規範化していく<公>としての国家装置の領域があり、他方に<私>の局所化・個立かし分裂して行く個人の領域がある。個人の領域に対する不介入の権利の獲得が、ある意味での民主主義の根拠であり、それが国家という制度システムの形成と緊張をはらみつつも相互依存的に展開してきたのが、近代国民国家であった。90

ラジオ:欲するも欲せざるもそこに声がある。その声は一方的である。すべての命令者のそれのごとくに一方的である。ラジオの前にはすべての人々は聴き手である。

和辻の震災の記述の分析は、もともとマテリアルがいいということもあるけれども、秀逸だった。「記憶のたぐりよせ」というコンセプトもよかった。これは個人の中での情報プールから活性化するという個人的な話だけれども、それが社会の中で使われる様子が出ていた。ご高名はかねがね聞いていたけれども、なるほど、こんなに優れた洞察を持つ学者だったのか。