京都のコレラ

必要があって、京都のコレラ対策史の研究を読む。文献は、小林丈広『近代日本の公衆衛生―都市社会史の試み』(東京:雄山閣出版、2001)。よく整理された優れた研究書であった。

安政のコレラ(1958-9)のコレラでは洛中で1,800人あまりが死んだと記録されているが、この当時は、踊りながら祇園の社に詣でる「コレラ祭り」という自生的な祭りと、町年寄を中心とする「町」が中心となる相互扶助で対処しようとしていた。しかし、1877年以降の明治のコレラに対しては、国家と権力が全面に出てくる方法を用いていた。明治10年、12年にコレラに対しては、とにかく隔離と遮断が強調されたが、1880年の伝染病予防規則は、1) 清潔法、2) 養生法、3) 隔離法、4) 消毒法 の四つに整理した。82年には病名貼り付けは行われず、86年の流行には交通遮断法が主力となった。しかし90年の日本公衆医事会議では、交通遮断は反省された。