医学の専門分化

必要があって、医学の専門分化についての論文を読みなおす。文献は、Weisz, George, “The Emergence of Medical Specialization in the Nineteenth Century”, Bulletin of the History of Medicine, 77(2003), 536-575.

医学の専門分化は19世紀に始まった。それまで、別の職業であった内科と外科というきわめて大雑把な区分があり、それに加えて産科、眼科、精神科といった周縁的な領域が専門分化されている程度であった状況が、19世紀には大きく変わる。1841年にパリで学んだヴンダーリッヒは「全ての臓器にそれぞれの司祭がいる」という言葉で表現するようになった。この現象はこれまでパリの臨床医学革命で起きた病気の局在論と深い関係があるとされていたが、この論文はそれを批判して、1) 知識の生産としての医学、2) 医者集団の官僚的統制のための組織化、の二つが専門分化を駆動したと主張している。前者については、医者たちが臨床研究で学術論文を書くこと、そして、現状の知識にサムシング・ニューを付け加えることが、「集合的な欲求」となった。この背後には、パリの病院と医学教育のメリトクラティックで競争的なシステムがあった。簡単に言うと、シャープで知的に厳密ないい論文を書くことができれば、医学の世界で上昇できるチャンスがパリには作られていた。(フランスの地方都市の医学教育にはそれがなかったらしい。)そのため、医学校を終えたあとの医療で何が必要かということより、研究の中で業績をあげる仕組みとしての専門分化が選ばれることとなった。

もうひとつは、国家による医療の組織化の力である。フランス革命は旧体制から引きついだ膨大な数の病院の仕組みをもっていた。それぞれの病院には色々なタイプの患者が混合収容されており、あるいは病人とそうでないものの混合も存在していた。それを合理的に整理しなければならない、というのが行政的・官僚的な判断であった。