沖縄のコレラ

必要があって、明治12年の沖縄のコレラ流行を見聞した医者の紀行文を紹介した論文を読む。文献は、深瀬泰旦「明治一二年沖縄県のコレラ流行と土屋寛信」『日本医史学雑誌』45(1999), 373-400.

明治12年の3月に愛媛の温泉郡魚町で始まったコレラは、明治以降では最大のコレラ流行となった。その中でも人口比で言ってもっとも大きな患者を出したのは沖縄で、患者は約1万人、人口1000人に対して55.0 である。これは全国平均の5倍に及ぶ。2位が石川県の25.9だから、沖縄の数値は際立って高い。

この沖縄のコレラの惨状を視察し対策を立てるために内務省から御用掛として出張を命ぜされたのが土屋寛信であり、彼が残した「琉球紀行」という手稿の内容を紹介するのがこの論文の眼目である。当時の琉球は、いわゆる「琉球処分」によって強圧的な形で沖縄が県となって明治政府のもとに組み込まれた直後であった。沖縄県設置は3月であったが、かつての琉球王朝の支配層は明治政府に反抗の姿勢を見せていた。コレラ流行がはじまったのが8月であるから、防疫行政は困難を極めた。もともと、明治12年のコレラに対する明治政府の対応は非常に「まずい」ものであったし、沖縄県の政治的な混乱はそれに拍車をかけた。土屋は「官民隔絶」という言葉を使い、県庁の指示を現地にいきわたらせる仕組みが不在であることを嘆いている。現場の防疫用に肥後や薩摩から駆り出された巡査たちと同船した土屋は、その「無法的」な振る舞いに困却しており、現場に無法者のよそ者が入り込んで防疫を指示するという形は、どう考えてもスムーズに進む体制ではなかった。この防疫体制の不備が、被害の大きさと関係があるのだろうな。