フーコー「ヘテロトピア」

必要があって、フーコーのヘテロトピア論を読む。文献は、Foucault, Michel, “Of Other Spaces”, Diacritics, 16(1986), 22-27. ごく短いエッセイで、dangerous individuals と並んで、私が好きなフーコーの小品である

19世紀末と20世紀末から現在という二つの時代を表すキーワードをそれぞれ一つだけ選ぶとしたら、進化論とグローバライゼーションのペアが有力な候補だろう。19世紀が歴史と時間に取り憑かれた時代であったとすると、20世紀後半以降の現代は、空間の時代であった。現代の我々が世界を経験する基調は、継時的に発展する長い生命としてというよりも、点を結び、それ自身の中で交差するようなネットワークとしてである。そういうわけで、場所論・空間論が必要になるというわけである。

フーコーの空間論の中心は「ヘテロトピア」という概念である。これはユートピアと違って実在するが、実現されたユートピアである。この部分を説明した鏡と自己の説明は何か重要なことを言っていると思うのだけれども、よくわからない。ヘテロトピアの原理は五つ。1) クライシスのヘテロトピア―ある限定された時期だけ用いられるものから、逸脱のヘテロトピアへ。成年儀礼などのときに閉じ込められる小屋から、精神病院などを考えている。2) ヘテロトピアの機能は変わること。墓が持つ機能は時代によって大きく変わっている。3) その中に現実世界ではインコンパチブルなものを置くことができる。庭などを考える。4) それは時間のスライスをいれる。そこで時間が無限に蓄積されていく図書館や博物館という空間を考えればいい。一方で、市や祭り場のような空間は、一過的な時間のスライスを入れる。5) オープニングとクロージングのシステムを持っている。6) 現実は幻想であると教える幻想的なものにするという極と、現実の欠陥を補完して完成したものにするものという極を持っている。