三共製薬の歴史


必要があって、三共製薬の歴史をチェックする。文献は、山科樵作『三共五十余年の概貌』(東京:三共株式会社、1952)ほかに、60年史、80年史が書かれている。

三共はもともと横浜で輸出絹物業を営んでいた塩原又助に、当時アメリカにいた高峰譲吉がタカジャスターゼを日本で販売しないかと1899年にもちかけ、そのために塩原の他二名、合計三名で会社を作ったもの。三人で共にする会社だから「三共」である。その後、アメリカの製薬会社の日本での一手販売を行うほか、高峰の口利きで、タカジャスターゼとアドレナリンの輸入販売を手掛けるようになった。それまでの製薬の伝統を持たなかったので、当初から学術色が強い製薬会社で、その後も大学の医学部や理学部とのつながりを保って発展した。鈴木梅太郎のオリザニン、田原良純のフグ毒(テトロドトキシン)などは学術賞もとった三共の誇りであった。

これは三共80年史のほうに書かれていたことだが、「需要構造」が、昭和35年と45年ではだいぶ違い、昭和35年には一位ビタミン、二位外皮、三位抗生物質、四位中枢神経、五位消化器系であったのが、45年には一位抗生物質、二位中枢神経、三位ビタミン、四位その他の代謝性疾患、五位消化器系だという。昭和35年にはビタミンが一位というのはちょっと驚きだけれども、よく言われるところの、テクノロジーのイノヴェーションのピークと実際の利用のピークは大きく違うという現象だろうか。それとも簡単な種明かしがあるのかな。(これは想像だけど、給食にビタミン強化米が使われたとか。)しかし、これは三共だけの数字のうえの話なのか、それともトータルの話なのか、ちょっとわからない。

60年史が、いちばん充実している。そこに載っていた「かぜにルル」のポスター。・・・たしかに、これはインパクトがある。まるで薬のポスターではないみたいだ。