『古今著聞集』

『鬼の研究』で言及されていた天狗によるたぶらかし(幻覚)について、埃をはらって『古今著聞集』をひっぱりだしてきて該当箇所(怪異の巻)を読んだ。(月報に花田清輝が面白い話を書いていた。)天狗による幻覚の話(見たことがないご馳走を出される話)も面白かったし、それ以外のものを読んだら、大変おもしろかった。忘れないように、それ以外の面白かった話を二つメモする。

御湯殿の女官高倉の子である「あこ法師」が拉致されて返された話。あこ法師は7歳で、夕暮れ時に小六条で童子らと相撲をとっていたところ、築地の上から、しかとは見えない垂布のようなものが現れて、この法師を消し去ってしまった。周りの童子はみな逃げた。母はいたるところを訪ね歩いたが、見つからなかった。3日後の夜、門を騒々しくたたく音がして「失った子供を返そう」という。恐ろしくて開けずにいると、家の軒で大勢の声がして笑い、廊に物を投げ入れていった。火をともしてそれを見ると、まさしく失った子供であった。生きている様子もなくぐったりとし、物も言わず目をしばたかせているだけであった。修験者やよりましを集めて祈ると、物がたくさんついた。それをみると馬の糞であり、たらいに三杯分も出た。それでもなお言葉を話さず、生き返った死者のようであった。14・15までは生きていたが、その後どうなっただろうかと、当時を目撃したものがいっている。

「おこり」の餓鬼の話。ある静かなゆうべのこと、五の宮の御室が手を洗いきよめていたところ、御簾をかかげてやってきたものがいた。丈は一尺七、八寸、足は一つで姿は人に似るがこうもりに顔が似ている。名乗って、自分は餓鬼(水餓鬼)で、水に飢えるものであるという。水餓鬼がいうのは、世間の人のわずらいで、「おこり」というのは自分がしているのだ。それは、自分とともに水を求めると水を得難く、人の傍らについて自分が水を飲むからである。しかし近年、自分が近づけないようになっていて、水を飲むことができず、水の飢えは耐えがたくなってしまったから、助けてほしいと懇願した。御室はあわれに思い、たらいに水を汲んで与えると、よつんばいになって旨そうに皆飲みほした。「もっと欲しいか」と聞いたところ、「飽くことがない」と答えたので、水王の院を結んで指を口にさしあてると、嬉しそうに吸いついて飲んでいる。しかし、その指に苦痛を感じて、それが体まで登って来たので、払い捨てて、火の印を結ぶと、もとのようにもどった。

あこ法師の話、これと少しだけ似た話を、19世紀のイギリスのカルテで読んだことがある。「かぶ=turnip泥棒を見つけられて、バカ =turnip になる」という既往歴が語られていたカルテである。それから、「物が付いていた/憑いていた」から、落としてみると馬の糞だった、というのは、ある種の洒落なのかしら?「おこり」にかかった人が水を求めて渇するというのは、どこかに書いてあるのかしら?