「古典的細菌学」再訪

必要があって、コッホとパストゥールの「古典的細菌学」についての理解を大きく書きかえる論文を読む。文献は、Mendelsohn, J. Andrew, “’Like All That Lives’: Biology, Medicine and Bacteria in the Age of Pasteur and Koch”, History and Philosophy of Life Sciences, 24(2002), 3-36. 非常にテクニカルな問題を論じているが、きわめて重要な複数の主題を説得的に論じた、絶対の必読論文。

「1880年代から1900年代にかけて発展したコッホやパストゥールの古典的細菌学は、疾病を病原体の侵入と同一視する還元主義的な疾病観を唱えた」という主張は耳にタコがはるほど聞く。還元主義的でない医学を唱える医学者もこのセリフを口にするし、医学史を通じてある医療の形を論じたい人たちもいう。こういうと、理系の還元主義に対抗して、人文社会科学と親和性があるアプローチをとることを正当化できると思っている人たちも、生物医学と称して細菌学をこのように位置づける。この捉え方は、20世紀中葉以降に医学・科学とその本質について深い洞察をめぐらしたルネ・デュボス、ルードヴィヒ・フレック、マクファーレン=バーネットらに由来する、20世紀の医学・医学論の王道の中で作られた歴史の捉え方である。この論文は、この史観の本質をとらえて批判しようとする。私にはその妥当性を判断はできないが、問題に深く切り込んでいて、かなりの説得力を持つように感じる。

この壮大な仕事に立ち向かったコアになる概念は、「毒性」(ヴィルレンス)の概念への注目である。誰もが知るように、毒性の操作はパストゥールの1880年の鳥コレラのワクチンの中心的な概念である。弱毒化したワクチンを打ったら病気を予防できたことから、特定病因説に基くワクチンを実験室で作るというヴィジョンが現れる。免疫学の紀元ゼロ年といってもいい。しかし、Pは、この論文で、病原体のひとつの種において毒性が強くなったり弱くなったりすることが自然界にも起きるのではと考えている。すると、疫病の発生、激しさ、終焉は、毒性の変化によって説明できる可能性が開かれる。この考えは、ルーをはじめとする多くのパストゥール派も表明して、取り上げられて議論されていた。つまり、Pの議論の中には、自然界と社会で存在して変化する毒性の議論が含まれていたのである。すなわち、この議論は、疾病の進化論的な変異の概念に発展する方向を含んでいた。(ラトゥールの、パストゥールと衛生学者たちの誤解と言うモデルは、そもそもPの議論にあった多様性を読みそこなっている。)この考えの意義はコッホも認めており、コッホの議論は病原体の種の固定性というドグマが示唆するよりもはるかに深い。つまり、P,Kたちは、実験室において、フィールドに起きるような進化を起こしており、そこで変異と適合に必要な時間のちがい、つまり「タイムスケール」という考えを使っているのである。このように、Pの「ヴィルレンス」という概念は、それ自体としてはほとんど吟味されなかったからっぽな概念でありながら、細菌学とその対象を、新しい知と技術の枠組みへと再構成したのである。

さあ、この問題は大物だから、これは何度も読み直して丁寧に考えないと。