性と現代文明

必要があって、20世紀初頭の「性と現代文明」について論じた書物を読む。文献は、Bloch, Iwan, The Sexual Life of Our Time: In Its Relations to Modern Civilization, translated by M. Eden Paul (London: Rebman Limited, 1909). 

イヴァン・ブロッホ(1872-1932)はドイツの医者で性科学者。同書はブロッホが書いた性科学の百科事典的な大著の翻訳で、電話帳くらいの厚さがある。数章だけ重点的に読んだが、素晴らしい深みを持った内容である。

憶えておきたいポイントを三つだけまとめる。第一に、「医学的な視座」に対比される「人類学的な視座」について。同書が書かれた段階で、性的倒錯の理解に大きな影響を与えていたのは、ウィーン大学精神医学科の教授のクラフト=エビングの『性的倒錯』であったが、ブロッホは、KEの功績を高く評価しつつ、その枠組みそのものを批判する。KEが用いている素材は<患者>となった性的倒錯者であり、それは性的倒錯の一部であるという。それに対して、ブロッホが anthropology とよぶ方法では、患者ではなくて、歴史と地理の双方から素材が採られる。そうすると、その性的な行為や傾向を病いであると思っており、医者にかかって「患者」という自己定位をしなかった人々から素材を取って研究をすることができる。性行動の研究を、病理の世界から解放して、多様性と捉える道筋をつけたといってよい。ちなみに、これはフロイトも『性欲論三篇』で指摘しているブロッホの特徴である。KEの有名な書物が病理化にだけつながったというのではないが、性の人類学というのは、たしかにKEとは違う視点を性研究に持ちこんだ。その中には、19-20世紀の医学が帝国主義との結びつきを強め、ブロッホが志向していた「人類」の研究から、それぞれの植民地ごとに細分化された「文化」を重視するという発展を準備したこともあるのだろうな。

第二のポイントは、変質・退化 degeneration の理論への反論である。クラフト=エビングもそうであるが、近代以降の文明の発展という現象を基礎にして性的倒錯という病理を理解するのは、変質理論をもとにして生命を理解する視点である。ブロッホはこれを批判して、多くの研究を引用する。オブスキュアな医学者だけでなく、メチニコフのような巨人やニーチェのような思想家をひいて、時間の経過には、不調和を調和に変えていくような力もあるといい、この力の存在を生物の細胞レヴェルなどで見ることができるという。ブロッホは変質に対置して、時間の中で顕現していく「力」を見るのである。

第三のポイントは、サディズムとマゾヒズムを「権力」の関係として見る視点である。サディズムとマゾヒズムを合わせて ブロッホらはaglonagnia というが、そこにあるのは、ニーチェの「力」であり「冷酷さ」であり、イギリスの心理学者のベインがいう「力とそれを持つことの意識」である。マゾヒズムが、力と深い関係にあることは、力を行使する職業、たとえば官吏や裁判官にマゾヒストが多いことからも伺える。まあ、これはでたらめだと思うけど、これを読んだ官吏にマゾヒストが多くなることは容易に理解できる。マゾヒストであることは、まさしく自分の公職にふさわしい性的性向なのだから。って、これは、家畜人ヤプーに話がずれていきました(笑) 

なお、サディズムとマゾヒスムを論じた章の末尾に、ロシアで逮捕されて処刑された無政府主義者が書いた、性的・政治的・思想的マゾヒスムの長い手紙の翻訳が付されている。ブロッホによると、この手紙は真正なものだそうだ。