後藤昌文

明治期にハンセン病の治療法を発見したと主張して名をあげた医者、後藤昌文について『明治立志編』の記述を読んだからメモしておく。近代デジタルライブラリーで読むことができる。

後藤は美濃国の北方村で医者の家系の家に生まれた。本来ならば家業を継ぐはずであったが、医学を嫌って「遊蕩無頼」の生活をしばらく送っていたため、家産を使い果たしてしまい、「宰伯になるのはもとより難しい」と嘆いてやむをえず医学修業に入った。しかし、医学は多岐にわたりそれを学ぶのは難しいため、当時の四つの難病(労しょう、癲狂、脚気、癩病)のうち、もっとも人に嫌われる癩病の治療を発見して天下の廃疾を救おうと努め、ついに癩病を治療する方法を見出した。西洋人に、その薬を分析したらどうなるのかと問い詰められたとしたら、にっこりと笑って、私は理論よりも実効を重んじると答える、といった。

その治療法は高く評価され、大学東校などにかかわり、起廃病院と名付けた病院もひらいたところ、全国はもちろん中国からも患者が集まった。ハワイ国王もここを訪れて後藤をハワイのハンセン病院での治療に招いたという。このように治療法が発見されると、これを天刑病などと呼び、不治であるとあきらめ本人を遺棄していたようなことが、いかに愚かなことかよくわかる。現在では、疥癬には硫黄が、梅毒にはヨジーネが、マラリアにはキニーネが、回虫にはサントニンという有効な薬がある。これらがなければ、疥癬やマラリアを天刑病というのだろうか。癩病は、有効な薬が発見されるのが遅れたばかりに、天刑病と言われるのである。

正規の医学教育に乗って普通に医者になるのではなく、どこか野心的で「一山あてよう」という匂いがする企業家であること。その企業家が公権力の援助を得たこと。「理論よりも実践と莞爾と笑う」エピソードを憶えておこう。