江戸医学のダイナミズム

岩波の日本思想体系の近世科学思想の古書に月報がはさまっていて、そこに掲載されていた著名な漢方の医学史の先生の矢数道明の文章が記憶に残ったので。文献は、矢数道明「吉益東洞と中神琴渓」(岩波書店 日本思想大系 近世科学思想 下 月報15(1971年8月)

江戸時代の医学のダイナミズムを象徴するのが、「古方」と呼ばれた学派である。『傷寒論』という古いテキストに返るという源流志向の強い態度と、「親試実験」と呼ばれる経験主義の強い志向を組み合わせた学派である。小川鼎三は、この学派を西洋医学におけるルネッサンスにたとえている。いろいろな意味で一理ある考え方だと思う。

ダイナミックだったのはこの学派だけではない。この学派のダイナミズムに共振した多くの独自の医学思想が唱えられたことが、江戸時代の医学の歴史の本質的な性格の一つではないかと私は考えている。古方の過激な医学改革の提唱に共鳴するような構造を、江戸期の優れた医療者たちは持っていたということである。蘭方・蘭学・洋学の発展も、たぶんこの構造と深い関係があると思う。その構造の内容などは、もちろん私にはわからないけれども。

そういうことを考えていたので、矢数による中神琴渓の記述は、とても参考になった。古方と、古方が対決した「後世派」と呼ばれる双方の医学に対して距離を置いて、独自のスタンスを取ろうとした医者である。これを覚えるためにメモしておく。

「江戸中期以降、日本の古方家は、傷寒論の研究に熱中し、中西深斎は門を鎖して文字の研究に没頭し、喜多村直寛は医に傷寒論あるは儒に論語孟子あるが如しといい、宇津木昆台は傷寒論一冊を枕にすれば足れりとなし、尾台よう堂も如何ような病人にても仲景方にて足れりと主張し、片倉鶴陵は夢に張仲景が現れて日ごろの疑問につき教えを乞い、三拝九拝したという。」
「琴渓は「生々堂雑記」の中で「仲景・東垣を臣として使う」という旗幟を掲げて衆目を驚かした。「それ古医方と称するものは仲景を君とし事え、後世医と称するものは東垣・丹渓に臣として事う。これをもって、権は彼が陳言にありて我にあらず。ゆえに陳言に拘滞して、生涯わざ拙く、医術の権政を執り行う能わずして、医僕を以て身を終わるは口惜しきことならずや」