今東光『稚児』

必要があって、今東光の中編小説「稚児」を読む。『今東光代表作選集』の第五巻に収録されている。単行本だとアマゾンの中古では54,000円の値がついている。

時代は平安時代、比叡山の美しい稚児の花若が、高僧の蓮秀法師に愛されている。その花若に、内気で貧乏でうだつがあがらない初老の慶算が横恋慕する。一方で、蓮秀は花若と結ばれたあと、取り巻きの僧の計略に乗せられて、別の稚児の美しさに目がくらみ、花若は屈辱に耐えかねて寺から逃げ出すというストーリーである。失礼な言い方かもしれないが、小説そのものとしては、それほど読みごたえがあるものではないと思う。

この作品の価値を高めているのは、花若と蓮秀が結ばれる箇所で引用される、門外不出の秘本「弘児聖教秘伝」の部分であろう。今東光が添えている説明によれば、三島由紀夫もこの部分を引用しているそうだ。「弘児聖教秘伝」はもともと偽書だということをネット上で読んだけれども、どのぐらいの時代なのだろうか。

A 「紙を裂きもみて能く用ふべし。さて裂きたる紙をまず指頭のかしらに巻きて唾を塗りて、法性花[=肛門]に入れて能く誘ふて後に、頭指、中指、二に紙を巻きて能く能く誘ふて、次に頭指、中指、無名指、三に紙を巻きて能く能く誘ふて後に(後略)」
B「その時、僧の左の手、児の腰の辺より入れれば、児、心得て腰を少し持ち上げ次第次第に上へあげて手枕にするなり。児の髪をば○○○の頸のほどへ置くなり。児の右手をば身に添えて寧ろ○○に置くなり。左手をば僧の背中の程へ置くべし。僧の右手は児の背より少し下に置くなり。初めて寄り合わん児の背より下へ手を廻すことあるべからず。はじめたらん児、何の足にせよ僧の足を掛くることあるべからず。それも馴れたらんには苦しからず。」
C「その時、僧の無明火を把るなり。それにも様あり。まず毛際、指三つを以て少し捻じるようにしてその後、みしみしと、しなやかに、たをやかに把るなり。」

AとCについては、肛門性交と指による性器の刺激である。ギリシアの少年愛と違い、ここでは肛門性交があり、肛門はもともとは性交のために作られている器官ではないから、準備をしなければならないのはいいし、ペニスを指で刺激する方法が論じられているのもいい。Bは肛門性交のときの姿勢・体位の問題であり、親しさによって許される姿勢が変わるということだろう。二人の身体と手足がどのように配置され、何が許されて何が許されないのか、親しくなると児の背より下へ手を廻すことが許されるのはなぜか、児が僧の足に自分の足をかけてよくなるのはなぜか、いろいろと想像してみても、よくわからない。