高畠華宵と中将湯


少し調べたことをまとめました。引用・参照はお控えください。文献は、松本晶子『高畠華宵 大正・昭和レトロビューティ』(東京:河出書房新社、2004);高畠華晃『画家の肖像―高畠華宵』(東京:沖積舎、1982)などです。

華宵は宇和島の出身で父親は厳格な商家であったが、子供のころから女性的なものを好む性格で、京都で絵を学び、東京でも半端な仕事をして木賃宿に泊まりながら絵を描いていた。明治44年、高畠が23歳のときに、当時、津村の広告事務を担当していた越山友之のもとにいき、「中将湯」の広告画を描かせてくれないかと頼みこんだ。越山は高畠の服装から彼の手元不如意を見て取ったが、その才能と女性向け広告画への適性を見込み、越山との共同作業が始まった。それは、越山がキャッチコピーを考え、高畠が絵を描くというものであり、しばしば夜を徹して議論することもあったという。

高畠が作ったのは、伝統薬を近代文明の中に位置づけるイメージ戦略であった。それまで「中将姫」は伝統薬というふれこみであったので、伝統的なお姫さまのイメージで描かれていたが、そこから脱し、和装、洋装、日本髪、断髪などのさまざまなファッションに身を包み、街や自然や家庭など、さまざまな情景におかれた「中将姫」を描いた広告は、伝統とモダンをとりまぜて、女性たちの憧れの的となった。伝統薬をモダンな装いで売るパラダイムが作り上げられたことになる。昭和4年の『婦人世界』に掲載された広告文「彼女と中将湯」では、お茶の水のアパアトメントに住んで、和服を一着も持たず、タイプライターで手紙を書く「彼女」が、ニューヨークで中将湯を飲むことを憶えてきたという設定になっている。

もともと、大正時代には、広告は、文化の発信点として重要であり、才能があるものたちが活躍する場であった。クラブ化粧品の織田一麿(1882-1956)と東郷青児(1897-1978)、仁丹の広瀬勝平(1877-1920)と川崎巨泉(1877-1942)が図案に、星製薬の白井喬二(1889-1980)、味の素の高嶋米峰(1875-1949)、ミツワの内田魯庵(1868-1929)などが文案に、才人が活躍する場であった。中将湯の広告チームが先進的なパラダイムの薬の売り方を考えたとしても不思議にはあたらない。

画像は、『婦人世界』の広告からとりました。村松梢風が書いた小文がはさまれています。