人口中心政策と保健婦

寺田秀男「保健婦制度に就て」『公衆衛生』59(1941), no.9, 528-533.
戦前・戦時期に「人口」が政策のトップアジェンダになった件。
「原題は如何に優秀なる民族であってもある程度の人口がなければ発言権の認められない時代である。従って人的資源の拡充が国家を維持するのみならず国家を発展せしむるための第一要素であることには誰も異論はない筈である。」528

満州国への移民もこのためであるし、内地人口の一億目標もこのためである。しかし、我が国の死亡率は高く平均寿命は低く、結核をはじめとする慢性感染症は蔓延している。これは、かつて、衛生は個人中心であり、国家や民族のためではなかったので、政治の片隅に追いやられていたこと、また、衛生は非生産的であるといわれて後回しにされてきたこと、治療が真の目標であるといわれてきたこと、などが日本の衛生状態の不良のせいである。(著者の寺田は厚生技師であるが、このあたりの書き方が、縦割り官庁のシステムで、予算と権力を奪取するためのロジックが、そのまま政策になって国民に伝えられる、いやらしいメカニズムを感じさせる。最近、戦前から戦後の厚生省への漠然とした敵意がこみあげてきて、これは歴史学者として大変よくない。)

近年、健康相談所のように、こちらから出向いて行って検査をするような施設ができて、これが大変人気がある。NHKの納付金で昭和7年にはじまったものは、一年で100万人も見ている。そして、これらの施設で活躍しているのが、保健婦である。保健衛生の指導の重要性を体現する保健婦は、保健所、健康相談所をはじめとして、済生会、東北更新界、工場、町村などが雇用しており、その名称だけで50余り、数は1万8000ほどである。その2割は産婆と看護婦、3割5分は産婆、2割8分は看護婦だが、1割7分は、いずれの資格も持っていない。そのため、保健婦規則が出て、規制しようとする試みがはじまった。

杉山章子『占領期の医療政策』は非常に優れた研究書で、戦前の保健所については軍国主義の一翼を担ったというような評価をしていて、これは、事態の一部を的確にとらえている。一方で、保健所の保健婦については、なぜかナイーヴな甘々の評価をしていて、「全国の各地で献身的な努力を積み重ねた」と書いている。私も何点化の保健婦ものを読んだだけだけれども、杉山が書くよりもずっと多様だった。その中で、数は少ないけど、「お嬢様保健婦」とでも呼ぶべき人たちがいて、女学生が読む小説のようなタッチで手記を書いていた不思議な保健婦もいたのが印象に残っている。