作業療法の正当化

加藤普佐次郎「精神病者に対する作業治療並びに開放治療の精神病院におけるこれが実施の意義及び方法」『神経学雑誌』25(1925), 371-403.

松沢に移転して、作業療法の「一新紀元」がはじまった意気軒高な東京帝大精神科の加藤の力作である。作業療法の必要について、作業が治療に効果があるとか、患者の生活の質を高めるなどの、狭い意味での臨床と精神病院管理の視点だけからでなく、これからの精神病院が社会の中で占める役割はどのようなものかという、社会学的な広い視点に立った議論もあり、必読である。作業療法の実際と精神病患者の日常の生活がよくわかるという意味でも、非常に価値が高い文献である。

精神病については、早発性痴呆については全く分かっていないし、麻痺性痴呆については治療法がない。(これは、マラリア療法が日本に導入されるのが少し遅れたための発言である。この段階での日本精神医学の世界への対応は少し遅い。)つまり、精神病には根治する策がないのに、それを「病院」に収容するような体制が作られたわけである。特に、巣鴨から移転した松沢病院については、そのような批判があったのだろう。(check!!!)加藤は、そのような批判に間接的にこたえようとしている。

<根治策の有無にかかわらず、すでに国家的要求によって、精神病院を建設し、現にこれを管理している。この事実に立脚しなければならない。我々が管理する病院において、患者の実際生活を、現代において最も合理的なものにしなければならない。>という加藤の言い方は、「もう精神病院を作ってしまったし、そこに入れることにしたのだから、その決定は済んだことにして、前に進むための議論をしよう」ということで、悪く言えば病院収容を既成事実として受け入れさせる議論である。

松沢も他の精神病院も、その当時の「病院」が果たす機能は果たせていない。精神病は当時の医療技術では「根治」しないのである。加藤は、そのような状況における精神病院を正当化して、それは、障害を補綴するようなものだという。義手や義足は、根治的な治療、つまり「元通りに戻すこと」の不可能を認めたうえで行うことである。欠陥を有しつつも、いくぶんその欠陥を代償し、「生を楽しむ」ことを患者が得ることができるような方法が、精神病院の中で求められるべきである。

そして、一人としては欠陥がある個人であっても、それが多く集まると、有力な生産ができるようになる。精神病院は、その意味で、社会に対して有用なる生産を行う組織になることができる。つまり、作業は、精神病院が一個の有機体として有用になるのに必要な個人を作り出す、治療的「補正器」なのである。

松沢の作業療法は、精神病は治らないと認めなければならない状況にもかかわらず、壮麗な「病院」を公費で作ってしまったという状況において正当化されなければならなかった。 そのためのレトリックは二つ。一つは生活のクオリティという視点であり、もう一つは、社会への有用性であった。

作業所に多数の患者が集まることになって、その中に、自然、勢力ある患者が生じ、自らの周囲に痴呆状態にある患者を集め、彼らを利用して袋張で得た収益のうちから菓子などを買い、仕事に際にこれを分け与えるという事態が生じる。加藤は書いていないし、これでも問題がないと言っているが、きっと、その勢力がある患者は、菓子などのピンハネをしていたに違いないと私は思う