ゼンメルヴァイス

Semmelweis, Ignaz, The Etiology, Concept and Prophylaxis of Childbed Fever, translated by K. Codell Carter (Madison, Wisconsin: University of Wisconsin Press, 1983).
1840年代にウィーンの産科病棟で産褥熱の原因を発見したゼンメルヴァイスが、1860年に出版した書物のほぼ完全な英訳に学問的な注もついている、優れた本である。
医学生が死体解剖室で死体に触れた手を洗わないせいで産褥熱になるという発見は、医学史でもっとも有名な発見だから、それについては略す。重要なポイントは二点。

一つは、この発見に至った病院という空間が、科学的な知識を生み出す装置になっていたことである。もちろんそこで医者が患者を診て知識を生み出すわけだが、それ以上に、病院は組織をもって患者を処理し、そこでの行いが記録されている点が重要であった。ゼンメルヴァイスの探求の端緒は、産褥熱の発生についての差異であった。ウィーンの病院は18世紀に設立されたが、19世紀になって、パリの臨床医学革命風の死体解剖に基づいた教育と研究が行われるようになるまで産褥熱は多くなかった。これは、ゼンメルヴァイスが直接知ることではなく、遡及的な記録によって明らかになったことである。最も重要なのは、第一病棟と第二病棟の産褥熱の発生の違いであった。数年間の統計が記されているが、第一病棟のほうが、第二病棟の5倍くらい産褥熱が多いという圧倒的な違いがあった。この発見が重要な出発点であった。

結論は、有名なように、第一病棟は男子の医学生が教育され、死体解剖を実施した学生が手を洗わないで産婦の出産に立ち会うのに対し、第二病棟は女性の産婆の教育に充てられ、死体解剖がないからである。この結論にいたるまでに、ゼンメルヴァイスとウィーン医学校のチームは、さまざまな原因を取り上げているが、これらは、たとえば季節ごとの死亡、ウィーン全体の死亡率との関係、病院に入れられたことによる恐怖、病棟における宗教の儀式についてなどが仮説として取り上げられている。これらの論点について、統計的なデータをもって議論が進められている点もある。病院に入院して、どこで、どのような医療を受け、どのような経過を生きているかという事象が、個人について記録され、それらを集計して科学的な知識を作ることができるようになっていることが分かる。病院の入院・生活・医療行為・結果などが分節化されて把握され、記録されていたからこそ可能になった議論である。この知識生産は、もちろん病院に入院すると濃密になるが、病院の外の空間にも広がっていて、街における生活と疾病・医療との関係の知識も生産できる仕組みになっている。そして、特にゼンメルヴァイスの研究については、医療の欠点についての知識を産むことができたことに注意しなければならない。

この問題は、もちろん、フーコー『監獄の誕生』のパノプティコンの章における古典的な観察である、「<ライ者>をいわば<ペスト患者>のように扱うこと、監禁の雑然とした空間へ、規律・訓練の緻密な細分化を投影すること、権力のおこなう分析的な配分の方法で上の空間に対処すること」という指摘と深い関係がある。しかし、ことゼンメルヴァイスについていうかぎり、それよりも前面に出てきている問題は、この空間は、個人を規律・訓練し、個人についての知識を作るだけではなくて、再帰的に学問(この場合は医学)にも帰って行ったということである。

もう一つの重要な問題は、ウィーンの庶民がこの事態をどうとらえていたかということもゼンメルヴァイスが記していることである。特に、第一病棟と第二病棟の死亡率の違いについて、彼らがはっきりと把握していたことは注意に値する。ウィーンの庶民よりも下の階級の女性たちにとって、第一病棟と第二病棟の違いは決定的であった。第一病棟は週に4日、第二病棟は3日間の入院と決まっていて、女性たちはなんとかして第二病棟に入ろうと必死であった。第二病棟は相対的に人気があったから、第二に入院するべき日程にきても第一に回される妊婦もいて、彼女たちはお願いだから第一ではなくて第二に入れてくれと、ひざまづき、手を擦り合わせて懇願し、ゼンメルヴァイスは「しばしば見かける心を動かされる」情景であると書いている。彼女たちは、医者を死の使いとして恐れていたので、どんなに病気が悪くなっても、がんとして医者にかかろうとはしなかった。

注意しなければならないのは、実は、彼女たちは正しかったということである。第一病棟の方が死亡率が高いから避けなければならないという判断、その原因は医者であるという判断。どちらも、現代の見地に照らして正しい。

The patients really do fear the first clinic. Frequently one must witness moving scenes in which patients, kneeling and wringing their hands, beg to be relased in order to seek admission to the second clinic. Such persons have usually been admitted because they are igonorant of the reputation of the first clinic, but they soon become suspicious because of the large number of doctors present. 70

However, in order that those who had the intention of delivering in the maternity hospital but who delivered on the way would not innocently lose their privilege, street births were counted as hospital deliveries. This, however, led to the following abuse: women in somewhat better circumstances, seeking to avoid the unpleasantness of open examination without losing the benefit of having their infants accepted gratis to the foundling home, would be delivered by midwives in the city and then be taken quickly by coach to the clinic where they claimed that the birth had occurred unexpectedly while they were on their way to the clinic. If the child had not been christened and if the umbilical cord was still fresh, these cases were treated as street births, and the mother received charity exactly like those who delivered at the hospital. 81