三宅鉱一と心因論の社会史へ

三宅鉱一(1876-1954)は、医学の名門に生まれ、父、三宅秀は東京帝国大学の教授であった。呉秀三の後を継いで、1925年に精神病学講座の教授となり、1936年に退官した。25冊以上の書物を出版し、その中でも『精神病学提要』は1932年から39年までに五版を数え、『改訂精神病学提要』は1943年から62年まで九版を数えた、20世紀中葉の日本の精神医学の標準的な書物であった。

三宅の知的な軌跡は、日本の精神病を広い文脈で捉えるときに、重要な意味を持っている。呉秀三にならって、三宅自身が1904年から1907年にかけて留学したときには、ウィーンのオーバーシュタイナーや、ミュンヘンのクレペリン、アルツハイマーなどのもとで、脳の組織の研究の病理学を学んだ。知的な出発点は、クレペリンに影響を受けた、精神病は中枢神経の細胞の病理によって起きるという、いわゆる器質的な精神医学であった。しかし、三宅はドイツの精神医学における新しい潮流にも敏感であり、器質的な理解を補い、部分的には修正するものとして、心理的な原因によって起きる精神病にも積極的に注目していた。ドイツにおいては、第一次世界大戦のシェルショック・戦争神経症の結果、これを心理的な原因によるものと解釈しようとする態度が興隆した。三宅は、この潮流に乗ろうとする。ただ、三宅の時代の日本においては戦争神経症そのものは大きく取り上げられた精神病ではないので、災害神経症、外傷性神経症などを例として挙げている。

それらの狭く定義されたものだけでなく、より広い場合にも使えることを示すのが、松沢病院・東京帝大医学部における臨床講義をまとめた『精神病学余瀝』における、心因性の精神病を取り上げた部分である。(「心因性反応」『精神病学余瀝』中巻、347-358)そこでは三人の患者の症例が語られているが、これらは、ヒステリーや神経衰弱などに見えるが、いずれも心因性反応であり、元来の性格に病的な素質があったのに加えて、家族の死や家庭の経済的な苦境などの心理的な原因で、精神病となったものと分析されている。症状が現れるメカニズムは、いつもは意識下に沈められている心理的な活動が、病によって浮かんでくることであると議論されており、フロイトの精神分析に代表される無意識の理論も用いられている。

心因精神病は、三宅が「生気術」と呼んでいる現象が起こした精神病を理解する概念としても用いられている。ここでも、三宅はドイツでの精神医学上の潮流に範をとって、それを日本の対応する現象に適用している。かつては過度な宗教の信仰によって精神病になるという考えは一般的であったが、クレペリンらの器質主義的な理論とともに、その原因論は退いたが、大戦後のドイツでは、心霊主義(スピリチリスムス)が流行し、それとともに、心霊術によって精神病になったのではないかという考えが復興した。この考えを日本の例に適用したのが、『精神病学余瀝』の「生気術による精神病」(359-69)である。そこでは、妻が大本教に凝って精神に異常をきたし、夫にも生気術をかけた結果、精神病になって松沢病院に収容された48歳の官吏の症例が分析されている。

これらの事例を、「器質論から心因論へ」ととらえることは、精神医学における理論と病因論の変化という、事態の一部しかとらえていないことになる。心因論の登場により、患者たちは新しい形で自己をとらえるようになり、患者の家族たちは、精神医学と精神病院というものを新しい見方で見るようになり、新しい使い方をするようになった。精神病院の症例誌は、この部分に光を当てることを可能にする資料である。