兵頭静恵「がん闘病記に見る,患者が勇気づけられた他者の言動」

兵頭静恵「がん闘病記に見る,患者が勇気づけられた他者の言動」
先日の「痛みと闘病記」で聞いた、神戸市看護大学で助教をされている兵頭静恵さんの報告が素晴らしかった。81冊のがん患者による闘病記の中から、患者が勇気づけられた他者の言動の部分を抜き出して、それが誰によるものか、どのような内容なのか、ということを分析した論文。愛媛大学で新人賞のようなものを貰った優れた研究であるとのこと。

この手の分析は、気を付けないと、分かっている目標を確認するようなことになってしまうものだけれども、この分析が描く、患者の元気を支えていく環境は、告知から入院まで、入院中、退院後と変化していくこと、それぞれ、家族や同じ病気の患者や同僚など、別のタイプの人々が患者に勇気を与えていることがわかる。そして、一番面白かったのは、筆者が「メディア」と分類したものに勇気を与えられた患者が非常に少なかったこと、そして、筆者としてはショックだったそうだけれども、「看護師」から勇気をもらったと記している闘病記も同じくらい少なかったことであった。

このことを的確に表現するのは難しいだろうけれども、世の中で「患者に勇気を与える」と称して提供されている番組や、歌番組などでルーティンのように紹介される「この歌に勇気をもらいました」という情報から受ける印象とはだいぶ違う姿が見えてきた。メディアが「がなり立てている」という印象を受けることすらある患者へのモラルサポートは、実はそれほど闘病記には記されていない。もう一つは、看護師たちが、その世界にあまり現れてこないことは、医療の体制が、専門家支配から患者の自己決定へと動いていく中で、専門家の道徳的な意味が相対的に低下していくことを表している。看護師が患者のモラルサポートであまり記録されていないという事態は、それが悪いことであると思って、その状況を改善しなければならないと論じる偉い看護師もいるのかもしれないが、私自身は、良いことでも悪いことでもなく、ある意味で不可避のことであってあると思っている。(たとえばアーサー・フランクは、患者同士の意味合いの上昇と医療職の相対的な意味の低下に触れている。)メディアも、専門職も、患者を勇気づけることができた時代、あるいはできると信じることが良いことであった時代があったのだろう。その時代は終わりに向かっていると私は思うし、それはある階級にとっては良いことだと思う。