18世紀の人間―機械

Riskin, Jessica, “The Defecating Duck, or, the Ambiguous Origins of Artificial Life”, Critical Inquiry, 29(2003), 599-633.
オートマトン作者として有名なヴォーカンソン (Vaucancon) を素材にして出発し、人間の労働の定義と産業革命に象徴される「機械化」の本質に光を当てようとした、野心的な論文。先日、アメリカの大学院の秀才の学生に、「ごく小さい範囲の問題を取り上げて、その問題がもつ奥深さと広さを鮮やかに示すことが、博士論文の一つの範例のように言われている」と聞いたけれども、きっと、この論文は、そういう範例の一つになるような作品なのだろうと思う。

科学史系の学者で、ヴォーカンソンの名前を知らない人はいない。「消化して脱糞する機械仕掛けのアヒル」を1738年にパリで展示して有名になって著名になった機械職人である。科学史で好事家が興味を持つマイナーフィギュアとして定着したこの人物に新しい光を当てて、まったくちがうストーリーを語らせることを可能にしたのは、この人物が、のちに絹産業の監督官になり、アカデミー・ド・シアンスに、機械部門補佐として着任していることである。(ちなみに、後者の職につくときには、ディドロと競争して勝ったという。)この、産業との関係を通じて見えてくる世界を分析することで、ヴォーカンソンのアヒルは、機械にとって何が可能であり、何が人間・動物だけに可能な現象なのかということを、当時の技術によって実験する自然哲学的な試みになり、人間の労働の再分節化になる。人間の労働や行為は、いったいどこまで人間的なのか、どこまで機械的なのかという問いを発し、それを実地に行ってみて、人間の労働の内部に新たな境界を引くことである。「アンドロイド」(この言葉も、ディドロの『百科全書』に現れるそうだ。)に何ができるのかを問うことで、人間に何ができるのかということが問われたのである。

ちなみに、そこで人間と機械の限界とされたことの一つは、音声言語であったという。