松本清張『砂の器』

松本清張砂の器
有名な長編推理小説。殺人事件の犯人を中年の刑事が追い詰めていく話で、何度も映画化・TVドラマ化されている。ストーリーの重要な部分で、ハンセン病の話題が出てくるので、何年か前のドラマ化では、患者団体などの抗議か、製作者側の判断か自己検閲かで、その部分が変更されたことが話題になった。恥ずかしながら、当時は、私はこの作品も読んでおらず、映画もTVドラマも観ていなかったのに、反差別を標榜する団体の言葉狩りくらいにしか思っていなかった。これは、不明と怠慢を深く恥じなければならない。今回、原作を読んで、非常に強い印象を受けて、この問題について、もっと深く考えなければならない視点が見えてきたと思う。

ネタバレ含みでストーリーを紹介すると、主人公である殺人犯「和賀」は、ハンセン病をわずらって諸国を放浪していた乞食の子である。父は、中年期に発病し、妻と離縁して故郷を追われるように離れ、諸国を浮浪して巡礼したハンセン病患者であり、その父と一緒に主人公は浮浪していた。この父子は、ある島根の田舎で親切で人格者の巡査につかまり、父は療養所に送られてしばらくして死に、和賀は篤志家に預けられそうになるが出奔して再び浮浪の生活をはじめて大阪に流れつき、大阪が戦争末期の大空襲で区役所も焼けて戸籍の類がすべて失われたことを利用して、戦災で死亡した夫婦の子供であるという虚偽の申告をして、別の名前と戸籍をもつ人物に生まれ変わった。彼には音楽の天分があり、上京した東京で才能を発見されて、先端的・前衛的な作曲家として著名となり、富裕な大臣の美しい娘の婚約者となって、田園調布の豪邸でテクノロジーを駆使して現代音楽を作曲している。そこに、彼の写真を見て、幼少時の面影を見て取った島根の元巡査が東京に訪ねてくる。抹殺した過去から、自分の真のアイデンティティを知っている男が来たのである。和賀は、これを扼殺し、顔面が分からなくなるまで鈍器で殴り続けて顔をつぶす。この殺人の秘密を守るために、さらに殺人を重ねていくが、最終的に、その秘密が見破られて逮捕される。

この作品は、読みながら深くて暗い恐怖感がこみあげ、その恐怖感が胸の奥に沈んで凝っていくような、特有の恐怖感を感じた。その恐怖の核にあるものは「顔のなさ」である。主人公である殺人犯は、ハンセン病患者の乞食の息子という過去を、大阪の大空襲の炎で抹殺して別の人間になりすまし、絵に描いたような成功と幸福を手に入れた人物である。その二重性を示唆するものが、テキストの中に全く存在しない。彼の心理がどのように屈折しているのか、成功の表面の奥には何があるのか、何を思って殺人を繰り返していったのか、いっさい描かれていないのである。この、「なりすまし」の殺人者が何者なのか、まったく存在しないのである。この欠如を対照的に浮かび上がらせるのが、知人で友人の評論家「関川」の存在である。関川も、和賀と同じように、一方で既成の権威を否定し、もう一方で成功に飢える若い文化人である。関川も和賀と同じようにマスコミに注目された評論家であり、和賀と同じような二重生活を持っている。関川の場合は、銀座のバーの女給と寝ているという程度だが、それをみじめなほどひたかくしにする。彼女のアパートを出るときに隣人に見られたといって引越しさせ、彼女が妊娠すれば中絶させる。二重生活を隠し通そうという強迫的な心の歪みは、関川において徹底的に描かれる。その意味では、関川は和賀のドッペルゲンガーであるといってもいい。しかし、ドッペルゲンガーの苦悩を描くのと、主人公の苦悩を描くのは、決定的に違う。和賀の「顔のなさ」は、関川によって強調されこそすれ、補われはしない。

この「顔のなさ」こそが、冒頭に触れたハンセン病問題のコアであると思う。これは、ただ、昔のハンセン病についてネガティヴなイメージを描いた作品ではない。ハンセン病患者の放浪からはじまった主人公の人生が、まったく顔を持たないものになってしまったこと。他人になりすまし、きらめくような成功をとげた人物の背後に、ただの空虚が存在すること。その空虚が象徴する「人格の不在」こそが、この小説が与えた恐怖感の核心だと思う。まだ気が付いたばかりで、考えを深めておらず、うまく表現できないけれども、メモしておく。