遺伝子工学における「自然」と「人為」

遺伝子工学における「自然」と「人為」
未読山から読まなければならない論文を読む、基礎トレーニング。文献は以下の通り。
Rheinberger, Hans-Joerg, “Beyond Nature and Culture: Modes of reasoning in the Age of Molecular Biology and Medicine”, in Margaret Lock, Allan Young, and A. Cambrosio eds., Living and Working with the New Medical Technologies (Cambridge: Cambridge University Press, 2000), 19-30.

1970年代以降に発達した「遺伝子組み換え」(recombinant DNA)の意味を分析した優れた論文である。必読文献の一つだろう。

ブルーノ・ラトゥールの「フランスのパストゥール化」になぞらえて、現代の先端の遺伝子医療を位置づけている。ラトゥールによれば、パストゥールの細菌学は、医学・公衆衛生全体を変革した。一方には「フランス」という国家・人口があり、もう一方には実験室で微生物を研究する実験室の研究者たちがいた。その間に、無数の公衆衛生官たちが存在し、実験室の成果で病気の予防の仕方を変えようとしていた。それと同じように―と著者は言う―、この数十年の医学も、一方にはヒトの染色体があり、もう一方には無数のバイオテクノロジーの企業があり、その間に、遺伝子を通じて健康と病気と医療を変更しようとしている医者たちがいる。この構図における誤解の連鎖の中で、医学の「モルキュール化」が進行しているという。(それが科学者と医者たちの間の「誤解」の連鎖体であるかどうかという問題は、筆者がラトゥールから引いてきたものだから、議論しても無駄だと思う。)

ウィーナーが『サイバネティックス』で示したように、20世紀後半の生物学は、「情報」という概念を中心に動くようになった。免疫や遺伝子は記憶や転写といった読み取りといった情報の言葉で理解されている。ここでは、コンピューターなどのハードでメカニカルなテクノロジーによって、それによって細胞の内部で起きていることを表象することが目標であった。前者を「人為・技術・文化」、後者を「自然」と呼ぶことにすれば、そのプロジェクトの基本は、自然を技術で表現するという、啓蒙以来の基本であり、ヴォーカンソンの機械仕掛けのアヒルが餌を食べて糞をするのと同じであった。しかし、1970年代以降の遺伝子工学とともに、状況が根本的に変わってくる。そこでは、DNAシーケンスや組み合わせなどが行われているが、それらの技術を行う「工具」は人為的に作られた「ドライな」機械ではなく、酵素という「ウェットな」生物の環境の中で働くものである。これらの酵素の働きは、生命の長い歴史の中で作られてきたものである。遺伝子工学のテクノロジーは、まさしく生命の一部であり構成要素であり、それを用いて生命に介入しようとしているのである。ここでは、かつてのような、人為・技術・文化と自然という二元論に基づいた構造になっていない。このように、人為が、自然・生命の一部を道具にして、自然・生命を書き直すようになったことは、人為と自然が存在論的に異なったものではなくなっていることを示唆する。